「鬼の研究」

「鬼の研究」(馬場あき子:ちくま文庫)をちょうど読み終わったら、奇しくも節分の日だった。今は節分の豆まきも有名な寺社での行事としては残るものの、都会の民家で豆まきをするところが減ってしまった。我がマンションでは「鬼は外、福は内」の声はどこからも聞こえなかった。
 こういうところも、日本の古い伝統が忘れられていくのかと思うとちょっと寂しい。

 馬場あき子さんの「鬼の研究」、9歳違いの姉が40代の頃この本を読んでいた。その頃の姉は家庭の主婦だったが、読書が好きで私が学生時代居候しているときにはいろいろな本の話をした。当時は何で姉がこんな本を読むのか分からなかった。姉は俳句もやっていたので、何かのきっかけで、歌人でもある馬場あき子のこの本を読むことになったのだろう。
 あるいは、読み終わって気がついたことだが、女の中にひそむ鬼の情念、「鬼とならねばならなかった一人の女の内側」、気性の激しい情熱的な姉が、己の内面にひそむ、女の性としての“鬼”を静かに見つめたいがために読んだのではないかと思う。
 私は、この本がどんな内容について書いたものか読むまで知らなかった。
 
 最近、古代史関連にちょっと興味を持ち、関裕二さんのものを7冊ほど読んだ。その中でさかんに、鬼と神についての話が出てくる。
 思えば、日本には八百万の神と共に、それと同じくらいの鬼もいるのではないだろうか。
 戦後の民主教育の中で、宗教教育を禁止され、仏教はもちろん、神道、鬼、天狗、等を学校で教えることもなくなり、戦後世代の親は子供にそういったものを語れない人が増えている。“村の鎮守の神様”や“恐れ入谷の鬼子母神”といった民間伝承の文化も時代と共に薄まっている。

 節分を機に、自分(人間)の中にひそむ“鬼”を凝視する意味からも、この「鬼の研究」は考えさせられる名著です。昭和46年に書かれているが、普遍的な新しさを感じさせてくれると思います。
 是非ご一読を

鬼の研究 (ちくま文庫)

鬼の研究 (ちくま文庫)

以下はamazonの読者書評のひとつから転記しました。

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 鬼とは、かくも悲哀と滑稽、妖艶と優美さを表す、モノなのか─。
歌人でもある馬場あき子が著した鬼の研究の名作。夢枕獏の「陰陽師」の『生成り姫ノ巻』の最後の言葉の意味は、ここにある、といっても過言ではない。何十年も前に書かれた本であるというのに、古さを感じさせないというのは凄い。鬼の哲学書であるから、ただ読むだけでも面白い。内容は、歴史的な鬼の研究ではなく、古典研究の鬼、謡曲の鬼、である。「鬼とならねばならなかった一人の女の内側を連綿と余すなく語って」いる謡曲鉄輪。「つねに深い羞恥の心が孤独な〈艶〉をたたえて流れて」いる謡曲葵上。ぜひ一度、御覧あれ。

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 能「葵の上」を何も分からない時に観た。源氏物語もまともに読んでいないので「葵の上」がそれほど深い内容を秘めていたことを知らなかった。仕事を辞めて時間ができてきて、益々読みたい、観たい、勉強したい事が増えて大変だ。
 「能」や「鬼」についてのあらまほしき先達がおられましたら、アドバイス、お知恵を拝借できればと思います。