「山水思想 『負』の想像力」:松岡正剛

 書店で松岡正剛のこの本が目にとまった。4月10日に出版されている。私は4/22に買った。松岡が何を言わんとしているのか。私も以前から水墨画には関心があり、水墨画を描いてみたいと思っていた。たまたま、2年前から禅画教室に通うきっかけができ、山水画ではなく、もっぱら達磨絵を描いている。そんなときに、好きな松岡正剛が“山水思想”について書いているというので、これは読まねばと思った。
 松岡は「山水(画)というものは、そもそも『胸中の山水』なのである」と書きだしている。山水思想とは何なのか、日本人にとっての山水思想とは何なのか、との問いから出発し、雪舟から長谷川等伯へ、山水画がどのように日本化してきたかを、桃山文化に続く江戸300年の文化、社会情勢もふまえての分析をしている。
 中国の山水画、山水精神は、老荘思想風水とタオイズム、陶淵明の山水詩などが、中国山水思想のベースになっている。そういう中国の山水思想から、浄土教禅宗法華宗などの影響、茶の湯、書道など、渡来のコードから、自前の日本モードへの編集が行われてきた。中国の山水画から、日本人が逸れていった、「逸格の文化」、もしくは、中国山水画から削ぎ落としてきたもの。言い換えれば、中国山水画から引き算してきたもの、マイナスしてきた、『負』の想像力が日本の山水画を生み出してきたという。こういった『負』の想像力が、長谷川等伯の「松林図屏風」等を生んだという。
 松岡は、日本人の心の遺伝子の中に、「山水らしさ」というものにピンとくるなにかが宿っているのであると言う。盆栽や、絵葉書、観光地の案内看板、風呂屋のペンキ絵を見ているときも、そこに「山水」を想定する眼の習俗が動いていると言う。なるほどそうだったのかと、松岡の分析に感心した。
 私は、まだ絵画のことはほとんど何も分かっていない。しかし、西洋画のごてごてした絵画や、キリスト教関係の宗教画などは、どうも好きになれない。さらっとした風景を描いた水彩画や、東山魁夷平山郁夫などの絵画に、“逸れた”『負』の想像力を感じて、こういった絵画の方が肌に合うようだ。
 松岡正剛は「日本という方法」「日本数寄」などの本で日本文化をいろいろな角度から分析していて、面白く、勉強になった。彼が、ここまで山水画を研究していたとは知らなかった。山水画、水墨画などに興味がなくても、日本文化論として勉強になるところが多く、面白かった。
 
 長谷川東伯の「松林図屏風」はだいぶ前にTVで紹介されたことがあり、印象に残っていたが、実物を見たことはない。今度、国立博物館に見に行きたいと思っている。達磨絵だけでなく、水墨画にもトライしたいという気持ちが出てきた。