伊勢詣り:東海道歩き:吉原→由比 その3

翌日、吉原から由比に向かった。宿から出て、吉原本宿の商店街を歩く。「旅籠 鯛屋與三郎」というそば屋兼旅籠があった。店先に創業天和2年(1682年)、次郎長・鉄舟の定宿とある。店の主人が説明してくれた。昔はもっと海の近くにあったようだが、何度かの津波で、現在の地に移ったという。東海道の中でこの旅籠と近江八幡の薬屋さんの二つだけが当時の場所で商いを続けているそうだ。

 中に入ってみると、その歴史を感じさせるものがいろいろと飾ってある。この旅籠を気に入った山岡鉄舟が感謝の気持ちで書いたという、「鯛屋與三郎」の看板や、宿場町であった吉原宿に大名が泊まった折の宿札が20枚ほど壁に掛かっている。身延山参拝の指定旅館札も掛かっている。次郎長の写真も飾ってあった。初めて見たが、ごつい凄味のある堂々たる顔に感心した。
 富士川から右手に富士山を眺めながら歩くのだが、富士山は以前として頭を雲に隠して顔を見せてくれない。昼食は「すき屋」で牛たま丼。マメ防止薬を両足に塗ったが、一度休憩して歩き出すと、足裏がほぐれるまでの、1,2分がマメが痛くて辛い。雲が切れるのを願いながら、マメが傷むのをこらえながらひたすら歩く。“歩き行”である。
 街道のあちこちに浅間神社(せんげんじんじゃ)がある。街道筋の民家には庭に小さな社を造っているところが多い。恐らく富士山信仰なのだろう。
 Webで検索したら、「アサマ」とは、アイヌ語で「火を吹く燃える岩」または「沢の奥」という意味がある。また、東南アジアの言葉で火山や温泉に関係する言葉である。例えばマレー語では、「アサ」は煙を意味し「マ」は母を意味する。その言葉を火山である富士山にあてたとする説があり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばだという。群馬の浅間山(あさまやま)同じ語源から名付けられたのだろう。但し、富士山の浅間神社浅間山浅間神社は奉っている神が異なるということがわかった。
三時過ぎに富士がやっと雲間から頭を少し出してくれた。しばしマメの痛いのを忘れる。毎日、富士山を眺めることのできる人々には、“自然と”富士山信仰が生まれ、こころの中に育つのだろう。


 由比の手前に安藤広重美術館があった。仲間の多くは早く反省会の会場までたどり着きたいという気持ちだったが、折角の機会、私が入りましょうと言って寄ってもらった。
東海道五十三次の「由井」の浮世絵などを鑑賞した。
 かかとにもマメができたようで歩行速度が落ち、歩幅が縮まっていることがわかる。私ばかりでなく、仲間数人も同様だ。最後の一踏ん張りで、終着点「由比」の反省会場に到着。名物の桜エビのかき揚げと、桜エビ鍋を食べながらのビールがうまかった。
 6時半に会場を出て駅までの15分が寒くて、足がきつかった。
二日間で38km、約54,000歩。この行程を、由比から三島まで電車で戻る。たったの45分!、“苦あれば楽しみあり”、何の楽しみ? 誰かさんにバカじゃないと言われそうだ。男というもの、いくつになってもバカなことをして喜ぶ動物のようである。
 東京に戻ると、異次元の世界に戻ってきたような気分だった。