立川談志を読む:落語は「能」と同じ道をたどるか?

 立川談志の「新釈落語咄」「談志楽屋囃し」「現代落語論」三冊を図書館で借りて読んだ。
 今まで談志の落語はほとんど聞いたことがなかったし、本も読んでいなかった。TV、ラジオでちょっと談志の出る番組を見たり、聞いたりしただけだった。NHKの「新、話の泉」を何回か聴き、あらためて談志の偉大さを認識していた。
 また、我ブログで7/29に紹介した、立川談春の「赤めだか」を読んで談志の落語に対する考え方を知り、何故に、師匠小さんと対立し、1983年落語協会脱会し、落語立川流を創設し、その家元となるに至ったのかが知りたくなり、談志の書いたものが読みたくなったというわけだ。
 立川談志は1936年生まれ、1952年に16歳で高校を中退し、柳家小さんに入門し、「現代落語論」が出版されたのが1965年の12月。なんと、29歳で書いているわけだ。
 当時の落語界の現状、古典落語をどう継承していくべきか、など、「落語の見方聞き方」からはじまり、「真打ちになること」「昔の噺家、今の噺家」「観客・芸・人気ないしは笑いについて」「私の落語論」とたくさんの落語家、芸人、の実名をあげながら、それぞれの芸風や人柄、エピソードを交えての紹介、などなど、単なる落語論ではなく、“大衆”「芸術論」、文化論、人間学にもなっていて、色々と考えさせられ、かつ楽しく読ませてもらった。この本、初版以来20年にわたり、19版も重ねている。初版は私が大学生の時、大学の時にこの本に出会っていたら、もっと落語を楽しめたのにと思うと残念だ。
 談志がこの本を書いてから、約半世紀、世を去った名人たちも多いが、若手落語家もそれなりに頑張っている。今年の夏に見に行った浅草演芸場でも、年季の入った名人の方々も健在のように見えた。
 しかし、昨今、テレビで放映されるお笑い番組の、うるさくて、品がなく、知性のかけらもない、程度の低い笑いに辟易とする。落語もNHKなどで放映しているが、ほとんど見る機会がない。唯一楽しみに見ている「笑点」も、最近はちょっとマンネリで、腹から笑えるものが少なくなった。
 「新釈落語咄」では、たけしを評価していることと、あとがきを太田光が書いていたことが印象的だった。やはり“天才”には「天才」が見えるのだろう。
 談志が情熱を持って語る「現代落語論」読み進むうちに、ふと、これは落語における“風姿花伝”ではないかと感じるところがあった。あにはからんや!、この本の最後の一行で、29歳の談志が、「最後にもう一度言う。人間、未来を想像することはできても、断言することはできないだろうが、落語が「能」と同じ道をたどりそうなのは、たしかである」と結んでいる。
 落語のこれからの50年後、100年後は、はたして? 
 また寄席に行って本物の落語や漫談が聞きたくなった。