日本語について、山本夏彦「完本 文語文」

 水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読んだことと、最近“A塾”で日本語関連の勉強をしたことがきっかけとなり、日本語関係の本を読み返したりした。
 1.山本夏彦の「完本 文語文」(文春文庫)
 2.柳瀬尚紀「日本語は天才である」(新潮文庫
 3.鈴木孝夫「日本語教のすすめ」(新潮新書

いっぺんに3冊の感想を書くと長くなって、くどくなると思うので一冊ずつ書こうと思う。

「完本文語文」は、明治初期には残っていた文語文が、いかにして言文一致の現代口語文に変わってきたかを分析している。山本夏彦自身、今更文語体ではとても文章は書けないといいながら、樋口一葉上田敏、 中島敦の「山月記、李陵」などの文語文を賞賛している。
 日本人は文語文を捨てて、何を失ったかと、現代口語文の欠点を衝いている。「私たちはある国に住むのではない。ある国語にすむのだ。祖国というのは国語である。」と山本夏彦の語るところに耳を傾けなければならない。
 「文語というものは平安時代の口語で、それが凍結されたものだという。もう新しくなったり変化しないから、工夫はそのなかでするよりほかない。千年工夫したから洗練されたのである。」というのもうなづける。
 平家物語徒然草枕草子方丈記などは古文、文語文の良さを味わせてくれる。今は口語訳してもらわないと意味が理解できないところも多いが、口語訳したものだけではいまひとつ味わいが出ない。“あやしうこそ、もぐるおしけれ”を口語文に訳しては興ざめである。

 「口語は動いてやまないものである。それは詩の言葉にはならない。詩は文語をすてたから朗誦にたえなくなった。」
 萩原朔太郎は「月に吠える」「青猫」二巻で、これまで類のない口語で一世を驚かしたのだが、20年後の「氷島」では文語に帰ったという。朔太郎は「すべての詩篇は朗吟であり、読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない」と言ったそうだ。

 国語嫌いで、感性の鈍かった?Henry君、国語のテストで、この詩を読んでどう感じるか、作者は何を言わんとするか? 何も感じない理科系Henryは、したがってなかなか点も取れず、国語が好きになれなかった。高校時代買った古文の参考書が、「こそ(・・・)けれ」など、係り結びは因数分解と同じであるという説明を読んでから、やっと古文が理解できるようになった。
 中学、高校と嫌々ながらも詩を朗吟させられたから、いくつかの名詩は憶えている。小六の時に、百人一首を毎日二首ずつ憶えさせられた。朗誦にたえる古文だからこそ、今も憶えているのだろう。
 
 山本夏彦もいうように、今更現代人が文語で書くことはできないが、もっと古文、文語文を読まなければいけないだろう。現代若者の詩、歌にもいいものがあるが、昔の歌、童謡、唱歌、歌謡曲の詩も見直すべきだ。
 荒城の月、故郷、桜貝の歌、早春賦、椰子の実などどの歌もメロディーはいうまでもなく、文語調の詩が美しい。今の小中学校ではどの程度歌われているのだろうか。
 国語と音楽教育で文語文の良さを教育してもらいたいものだ。
「完本文語文」を読んで、なかで紹介している樋口一葉の「たけくらべ」や、中島敦の「山月記・李陵」、永井荷風の「断腸亭日乗」、萩原朔太郎の「氷島」などを読んでみたくなった。