お伊勢詣り<その2> 熱田神宮、草薙の剣・桑名の焼き蛤


お伊勢詣り2日目は地下鉄東別院の側の真宗大谷派名古屋別院の境内を抜けて熱田神宮にむかった。日本の仏教信者の中で浄土真宗が一番門徒数が多いというだけあって、この東別院なかなか立派な大きな寺院。寺社も大きい方が、庶民には、よりありがたみを感じるようだ。

 地下鉄で伝馬町まで行き、熱田神宮に行った。木の鳥居が立派だった。NPOのボランティアが説明をしてくれるというのでお願いをした。祭神熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ⇒天叢雲剣=あめのむらくものつるぎ)を神体としている。剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも、神宮に保管されたままとも、言われている。ウィキペディアでもこの草薙の剣に関しては色々の説があって、神話の世界、古代史の世界がわかって面白い。

 草薙の剣は近代の天皇は誰も見たことがないという。天武天皇あたりは実物を見たのだろうか。木の箱の中に石の箱があり、又その中に木の箱があってその中に入っているという。本殿を造り替えるときに、箱ごと運びだそうとしたが、あまりの重さに、やむを得ず、石の箱を開けて、木の箱だけを運んだという。神主は言うに及ばず、近年の天皇も誰も見ていない。
 同行の仲間が「箱の中を開けてみたら、10cm位の小刀があるか、何もなかったりして!」、などと言っていた。「へたに開けて、神話の世界がくずれてもこまるよな」とも。
 宮の渡しからチャーターした船で桑名に向かった。昔は東海道やお伊勢詣りに行く際は、皆この宮の渡しから船に乗ったという。当時の舟は小さな帆かけ舟だったので、天候によって船の出ないことも多く、舟の出を待つ人々で、この宮の渡しが賑わったという。

 昔は4時間余りかかったそうだが、我々の船は、名鉄デパートで買い込んだ弁当を食べているうちに、2時間少々で桑名の七里の渡しに着いた。熱田の宮の渡しから海上七里というので「七里の渡し」といわれた。干潮時には沖合を遠回りするため、十里ほどにも伸びたという。またの名を「間遠の渡し」という。
 その昔、壬申の乱が起こった時、大海人皇子天武天皇)が桑名から熱田へ海を渡り、あまりの遠さに「間遠なり」と言ったという伝説によっているとのこと。実際には皇子は渡海しなかったようだ。

 かっては七里の渡しの地に桑名城があった。江戸時代には本多忠勝松平氏などが城主となっていた。現在は九華公園となっている。
 渡し場跡には伊勢神宮の一の鳥居がある。お伊勢詣り、やっと一の鳥居に着いたわけだ。

 桑名城跡の九華公園を散策し、近くの六華苑というところに行った。山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代目諸戸清六邸が六華苑として公開されている。この諸戸清六邸、鹿鳴館などを設計し「近代日本建築の父」と呼ばれた、ジョサイア・コンドルが手がけ、地方に唯一残る作品として注目されているという。このコンドルさん、岩崎邸や古河庭園の旧古河邸など財界関係者の邸宅を数多く設計している。
 ジョサイア・コンドル河鍋暁斎に師事して日本画を学んでもいる。埼玉県の蕨市河鍋暁斎記念美術館がある。URLは下記。
http://www2.ocn.ne.jp/~kkkb/index.html
小さい美術館ですが、ご興味のある方は、お近くに行かれたときに、是非見学されることをお勧めします。

 話を六華苑に戻そう。コンドルの設計した洋館とそれに続く和室と日本庭園を見学した。ゲームテーブルなども置いてあった。Henryもこういう家柄に生まれていたら、日本庭園を眺めながらの洋館のゲームテーブルで、コントラクト・ブリッジかポーカーでもやっていただろう・・・。

 桑名と言えば「焼き蛤」、あらかじめ予約して日曜日に店を開けてもらい、参加者18名でわいわい言いながら焼き蛤を頂いた。2日間合計で5万歩の後の焼き蛤とビールは、また格別の味わいがありました。
 お伊勢詣り、歩くことが目的なのか、歩いた後のビールが楽しみなのか、それが問題だ!