「しあわせる力−禅的幸福論」(玄侑宗久:角川SSC新書)

 玄侑宗久の新しい本が書店の店頭に並んだ。題名に惹かれて読んだ。1月24日の第一刷発行前に発売されていた。
 玄侑さんは、和語としての「しあわせ」は言葉の起こりは奈良時代だったという。それに「為」というを当てて、「する」と読んだ。その後中世になって、「しあわせ」という言葉ができて、「為合わせ」と書いた。「為合わせる」だから、私がすることと、誰かのすることが合わさる。誰と合わさるか。最初は、相手は天でした。天がわたしにどうするのか、それに対して私がどうするのか。それが「為合わせる」だったという。「為合わせ」ようがうまくいかないと、うまく生きていけません。だから、最初の「しあわせ」という言葉の意味は、ほとんど「運命」と同じ。天が私に合わせてくれませんから、「天の思惑次第」というわけだ。
 室町時代になると「為」という字が、「仕」に変わった。すると、相手が天ではなく、人間になってきた。
 剣道も今は試合と書くが、ちょっと前までは「仕合」と書いた。これは人と人とがぶつかり合うということ。つまり、人と人との関係がうまくいくことを「仕合わせ」と呼んだと、玄侑さんは語る。
 日本人が考えた「しあわせ」は常に相手がいることで、西洋的な「しあわせ」とはかなり違うという。確かにHappyとはだいぶニュアンスが異なる。

「さいわい」は「咲き(にぎ)わい」のことで、勝手に「幸」という文字の訓読みにしたのである。と「はじめに」で書いている。

 玄侑宗久がこの本の中で、『むすんでひらいて』の歌について面白い解釈をしている。以下紹介させていただく。
 「むすんでひらいて、手を拍ってむすんで、またひらいて手を拍って、その手をうえに」、今まで何も考えずにこの歌をうたってきた。意味など考えずに単純な幼児向けの歌とばかり思ってきた。
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 この曲のメロディーは、あのフランスのルソーが書いた戯曲の「村の占い師」の第8幕で、パントマイムのバックで流された曲がもとになったという。
 そのメロディーが、その後讃美歌に使われたり、軍歌になったり、童謡になったりしたそうだ。
 この歌が日本に登場したのは明治の初め。バプテスト教会の讃美歌としてこのメロディーが歌われた。それが1947年、第二次世界大戦後には『むすんでひらいて』という歌詞を伴った唱歌になった。この歌の作詞者は作者不詳になっている。これだけ有名な歌がなぜ作者不詳なのか。自分が作詞したと言いたくなかったのは何故なのかと、玄侑さんは語る。
 
 1947年というと戦後すぐ。連合国に負けた日本は、日本らしさを取り戻したいという思いがものすごく強くあったのではないか。
「むすんでひらいて手を拍つ」、手を拍つことで、もう一度我々らしいものをむすび直そうとしているという気がする、と玄侑さんは言う。
 我々日本人は3世紀のころから相手に敬意を表するとき、手を拍って頭を下げるという行為をしてたという。今は手を拍つというと、神様にしかしていない。柏手(かしわで)と言うが、柏手を打って頭を下げるのを、どうやら昔は人間に対してもしていたようだ。この風習が神様だけに残ったというのは、もっとも敬意を示すべき相手だからだろう。
 手を拍つと音がします。音がしたところに神様が「おとずれる」のです。我々が音をさせたところに神様が降りてくる。神様がいらっしゃるから、ありがたくて柏手を拍つのではなく、柏手を拍ったから、敬う心を感じて、そこに神様が降りてくるという仕組みになっている。
 こうやって、柏手を拍って、結んでいったんひらいた概念を結び直す。手を叩くと、一瞬頭によどんでいたものがぱっと飛んで、頭の中がきれいになる。それでも人間は、どうしても何らかの概念を結ばないではいられない生き物ですから、せめていったんひらいて結び直すという行為によって頭の中をリフレッシュする。
 戦争中にしみこんだ奇妙な概念も、いったんひらいて結び直す。その時、より深い日本的感性によって結び直されるのではないか。そんな期待が、作詞者にあったのではないか。
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 なるほど、納得のいく解釈だと思った。神社での「二拝二拍手一拝」など、出雲大社、宇佐八幡の4回、伊勢神宮の8回など、柏手の回数には色々あるが、柏手の意味をあらためて理解した。
 
 以下はこの本のamazonでの紹介です。
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自殺者が3万人を超えて久しい。
これは、すべてを因果律で考え、あらかじめ想定した未来に向かってまい進することを良しとし、物事が予定どおり進まないことを悪と考える現代の日本社会が生んだ歪みであろう。
「最大多数の最大幸福」という西洋的な考え方が世の中に跋扈し、もっと早く、もっと便利に、もっと豊かに…という欲望の坩堝に入ってしまっている日本人。
 本来、日本人はもっと偶然を楽しみ、人との関係性を大切にし、その関係性の中でしあわせを感じていた。
生きることに息苦しさを感じている人に贈る一冊。

第1章 日本人本来のしあわせ観とは
第2章 システム化によって失われゆく日本人らしさ
第3章 なぜ日本人はしあわせと思えないのか(「私」を結びすぎた「個性」;「私」ができると、「汚い」も生まれる ほか)
第4章 禅が考えるしあわせ(仏教が開発した「私」をほどくための方法;言葉で説明しない東洋の宗教 ほか)
第5章 息苦しいいまを生きるために(七癖が転じた七福神七福神という集団がしあわせを作る ほか)
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 どの章も肩が凝らずに読める。特に第5章の七福神の解釈は面白い。長くなったので、七福神については別の機会に書こうと思う。