「しあわせる力」(玄侑宗久)続き

sunriseさんから、「しあわせる力」に関する力の入ったコメントを2度にわたっていただいた。かなり長くなったので、日付をあらためて、“続き”を本文で書きました。
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 sunriseさん、さすが深い読みをされていますね。私も長いこと左脳優先で生きてきましたが、ビジネスマン時代もできるだけ左右のバランスを、考えてではなく、思って、生きてきたつもりです。
 道元の「正法眼蔵」の現成公案に「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるる也」という文章があります。
貴兄の言う「実相を知るためには言葉で認識できたと思いこんでいる自我を捨てる」ということが、“自己をわするる”ということでしょうか。修業を積めば実相に近づけるのではなく、実相を感じ続けるために修業し続けるのだと、道元禅師は言っているのだと思います。
 この歳になって、やっと少し自己をわすれることの意味が分かってきたようです。一方で、死ぬまで自己をわすれられないのが人間の業ではないかと思っています。
 とはいえ、凡愚遍理、あまり強く“自分を結びつけず”、自然体、“自然法爾”で実相を感じながら、生きていきたいと思うこの頃です。

 
<補足>
 今まで正法眼蔵は何冊か解説本を読んできました。分かった気になっていたようで、分かっていなかったと思います。頭で読もうとしてしてきたためか、なかなかすっきりと理解できていませんでした。いま、若手の僧侶、南直哉の「日常生活の中の禅」を読み終わり、「正法眼蔵を読む」を読んでいるところです。南直哉は現在54歳ですが、ちょっと硬いけど、明晰な正法眼蔵解釈をしていると思います。彼の本を読んで「行」の意味、「自己をわするる」意味が理解できたようです。