歴史的仮名遣い:その2

 福田恆存は小学生から歴史的仮名遣いの教育をすることは、そんなにむずかしいことではないという。確かにそうかもしれない。日本人にとっての国語とはどうあるべきかを考えたときに、歴史的仮名遣いに変えた方がベターだと思う。しかし、戦後の現代仮名遣いで教育を受けて、現代仮名遣いで読み書きをしてきた日本人が大半になった今、日本語をいまさら歴史的仮名遣いに戻すことはできないだろう。
 現在の小学生が歴史的仮名遣いを習い、本や新聞、その他の活字媒体が歴史的仮名遣いになれば、最初の数年は違和感があってもその小学生が大人になる頃には、歴史的仮名遣いで勉強したことが良かったと思うかもしれない。しかし実現は無理だろう。
 井上ひさしは、「私家版日本語文法」の中で、歴史的仮名遣いについて書いている。
 歴史的仮名遣いには山ほど文句があると言いつつ、「歴史的仮名づかいは、おおづかみにいえば『古代における表音主義を認める』立場である。だが、わたしには古代よりも現代(いま)が大切だ。古代における表音主義を認めながら、いま、自分が生きている時代の表音主義をなぜ認めようとしないのか。この一点で手を組むことができないでいる。」と語る。
 井上ひさしはこの仮名遣い、つまりはよく分かりませんと、ぼかしながらも、どっちなのだと聞かれれば、歴史的仮名遣いに決まっていると書いている。
 井上ひさしは、昭和21年、当用漢字表の前書きにある、動植物の名称は仮名書きにするという内閣告示に従うと、「こひ」か「こい」か、「いてふ」か「いちょう」か、「こほろぎ」か「こおろぎ」か、「あうむ」か「おうむ」、その他、たくさんの動植物の名を書くのに「よくわかりません」では行き詰まってしまうという。
 だから、井上ひさしは、鯉、銀杏、蟋蟀、鸚鵡などと、漢字で記して、仮名遣いが表面に出てくることを避けているという。歴史的仮名遣いで小学校時代を過ごしたであろう、昭和の偉大なる文筆家としての井上ひさしとしては賢明な判断だったのだろう。まったく戦後の現代仮名遣いによる教育を受けた私には、こおろぎ、おうむ
など漢字で書くことができない。
 「だからどうした」と言われないように、私の考えを言おう。
歴史的仮名遣いを古い昔の遺物のごとく扱うのではなく、もっと古典、古文の教育をすることによって、歴史的仮名遣いの意味、現代仮名遣いとの違いなどを、小中高とそれぞれのレベルに応じて、教育すべきだと思う。
 短歌や俳句、古典や文語文の文章をもっと味わいたいと思う。
息子達には時既に遅しかもしれないが、孫達には嫌がられるかもしれないが古文を読んで聞かせたいと思っている。