役小角と行基 その2(行基)


 役小角は634年生まれ、行基は668年の生まれである。行基も山林修行から出てきた。ほぼ同時代の二人なので、交流があったのではないかと思い、先生に質問した。多分あっただろうということでしたが、文献的には確たることは書かれていないようだ。
 行基のことは、名前は知っていたものの、古代史ドラマスペシャル「大仏開眼」を見るまで、どんな坊さんで、聖武天皇とどういう関わりで東大寺の大仏造営の勧進に起用されたのか、また、どういう経緯で日本最初の大僧正の位を贈られたのか、何も知らなかった。
 行基は山林修行から里に下り、法相宗の僧侶として、民衆とともに、いろいろな社会事業、土木事業や文化運動を推進した。仏教は公伝としては、538年、一般民衆の苦悩を救うために伝来したのではなく、国家鎮護の宗教として百済から倭にもたらされたという。しかし、古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった。彼らは日本への定住にあたり、氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたようだ。彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである。
 行基はそういう国家鎮護の仏教ではなく、役小角や古代からの帰化人の士族から受け継がれた仏教、道教集団の中で、民衆の中に入り、民衆の苦悩を救おうとした。行基集団は、自前で鍼灸、外科、按摩術等、さらには本草薬草を一般大衆に施していた。そんな行基集団は、朝廷から賞賛されてもよいはずなのに、結果として、法外の徒として弾圧を被った。
 聖武天皇は大仏建立に当たり、元正天皇の行基は「妖感」であるとの詔をくつがえし、行基集団の力が必要と、行基に大仏建立を要請した。
 先生のお話では、行基は、医療活動や社会活動だけでなく、文化運動を推進したという。行基の作った寺は関西だけでも49ケ寺に及ぶという。そして、全国に行基仏という仏像が残されている。そんな行基はやがて行基菩薩と呼ばれるようになった。先生は行基は日本のキリストのような人だという。
 そんな立派な行基について書かれた本は、専門書はあるようだが、一般向きの本は少ないようだ。私は行基に関するものは何も読んでいなかったので、これから少し読んでみようと思う。
 近鉄奈良駅前の銅像が行基菩薩だったことも、あらためて思い出させてもらった。行基菩薩像は東大寺の方向を向いているという。

 Webで役小角、行基を検索すると、色々と興味深い記事が多く発見できる。そういうものを読んでいると、ますます簡単には役小角、行基のことは書けないなと痛感した。
 まだまだ勉強しなくてはいけないことがたくさんある。

 役小角の足跡を行基も足跡を刻んでいる。空海も山林修行をして、役小角、行基の影響を大きく受けたのだと思う。役小角、行基に関わる書物も読んで、2人の創建した寺社に行ってみたいと思う。