A塾 鹿島神宮と香取神宮

 今月の英道塾は先生が鹿島神宮香取神宮に行かれたことを踏まえての話があった。2009年4月28日のブログで鹿島神宮香取神宮のことを取り上げた。日本で神宮と呼ばれるところは、伊勢神宮鹿島神宮香取神宮の3つだけだ。
 神武元年紀元前660年
祭神武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、経津主神(ふつぬしのかみ)仏主の神(香取神宮祭神)とともに天孫降臨に先立って国土を平定したとされる武神である。当社は、現在も宮中で行われている1月元旦の「四方拝」で遥拝される1社であり[1]、香取神宮とともに古代朝廷が東国を治めるにあたって蝦夷に対する前線基地として重要視された。両神宮とも古来より軍神としての性格が強い。
 古事記にも書かれているが、この二人の神が出雲に行って国譲りを迫ったという訳だ。
古代史関係の本では鹿島神宮香取神宮のことはあまり多く取り上げられていない。先生は鹿島神宮香取神宮を中心とする関東平野の一帯には大和朝廷をサポートする強力な勢力があったのではないかと言う。鹿島神宮のすぐ近くに「高天原」という地名がある。いつからこの地名が存在するのか分からないが、高天原が九州に特定されたわけでもないことを知った。
 また、中臣氏が常陸国下総国出身であったという関係で、中臣氏出身の藤原氏にも篤く信仰された。武甕槌神経津主神とともに春日大社に勧請され、藤原氏氏神春日神)の1柱として祀られている。更に先生は藤原の姓は「富士原」「不二原」から来ているのではないか。記紀神話の中で富士山が取り上げられていない事も疑問の一つだ。先生の推論で新しい解釈が出来ることも知り、新鮮であった。

 私のブログの2009年4月18日に、宮本健次の「神社の系譜−なぜそこにあるのか」(光文社新書)という本の内容を紹介しました。東国三社と言われる、鹿島神宮香取神宮、息栖神社の位置関係や、富士山、筑波山諏訪神社が、自然歴に基づいての位置が決定されているという。エジプト文明マヤ文明、インカ文明なども、春分の日秋分の日、夏至冬至などの太陽の位置によって寺社の場所を決めてきたとも言う。
 古代史はまだまだ分からないことが多い。機会があればまた鹿島神宮香取神宮に行ってみたくなった。