A塾の研修バスツァーで鹿島神宮と水戸偕楽園に行ってきた。鹿島神宮は二度目になる。今回はT先生引率もあり、バスの中では鹿島神宮にまつわる色々な話や、関連する古代史関係のお話も聞けて勉強になった。
鹿島神宮は明治時代までは、今、式年遷宮が行われている伊勢神宮、千葉県の香取神宮と並んで明治維新前に「神宮」を名称に使用していた三社のうちの一社にあたる。今では、明治神宮、橿原神宮、平安神宮、石上神宮、北海道神宮など神宮がやたらとあるが、維新前は上記三つだけだったのだ。
皇紀元年(神武天皇元年=紀元前660年)の創建と伝えられ、東国三社の一つにも数えられている名社である。ご祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)、武の神として古くから皇室や藤原氏の崇敬を受け、鎌倉期以降は武家政権から厚い信仰を得てきたという。新しい神社とは格が違うのだ。
T先生によると、鹿島神宮は香取神宮と並んで、大和朝廷以前に、関東一帯に大きな勢力があったはずで、記紀神話には書かれていない別の古代史があったのではないかと言われる。鹿島神宮の近くに高天原という地名が残っているのも気になる。鹿島神宮の祭神、武甕槌神(たけみかづちのかみ)と香取神宮の祭神、経津主神(ふつぬしのかみ)が天孫降臨に先立って、出雲に行き、大国主命=大己貴命(おおなむちのみこと)を説いて国土を献上させた。その時二人に負けた大国主命の子供の建御名方神(たけみなかたのかみ)は長野の諏訪に逃げのび諏訪大社に祀られている。
このあたりの古代史、まだまだ分からないことが多いが、色々と想像をかきたててくれて面白い。
以前にも書いたが、宮本健次の「神社の系譜−なぜそこにあるのか」(光文社新書)の中でも、鹿島神宮、香取神宮、筑波山、諏訪大社、出雲大社、富士山等との位置関係が自然暦に基づいて決められたという。
今回のツァー、先生の解説もあり、鹿島神宮の歴史的意味の理解がより深まったと思う。