「モノと日本人」(榮久庵憲司) その1

土曜朝のTBSラジオで大宅瑛子辛口コラムという番組がある。ちょっと変わった切り口から最近の話題を取り上げる。この日は、キッコウマン醤油卓上びんをデザインを大ヒットさせたという、今年2月に亡くなった榮久庵憲司の話だった。紹介されていた、「物と日本人」「道具論」「幕の内弁当の美学」を図書館で借りて読んだ。
 「モノへの信心」という見方、「モノに帰依する」という心の動き、などから、日本人にはモノは宗教的信仰の対象であった。古代、縄文時代からの日本人のモノづくり、モノに生命があり、心があるという考え方は日本人の自然信仰にもつながるものだろう。武士道、茶道に表れる、剣、茶道具など、人格ならぬ、仏格がるともいう。
 この榮久庵さん、実家がお寺だったため、一時期仏門にいたこともあるという。そんなこともあってか、日本人はモノ教徒=物(ぶっ)教徒で、日本人の作りだしたモノは仏典ならぬ、物典である。物経はモノをメディア(=媒体)として伝道していく世界宗教であるとのユニークな持論を展開している。

モノと日本人

モノと日本人

 また、仏教の伝来は、仏教の宗旨、思想、教義が入ってきたのではなく、モノが入ってきた。モノのかたちに記して、モノにのって入ってきたと言う。たしかに、初めて仏教が入ってきた時は、金ぴかの仏像(モノ)に日本人はびっくりして、仏教信仰が始まったわけだ。
 確かに、戦後の進駐軍、復興期、高度成長期へと日本人は”念仏”から、”念物”へとひたすらものづくりに励み、三種の神器、新三種の神器の所有へと邁進してきたのだ。
 私の少年時代、電気がま、トースター、テレビやエアコンはなかった。私もモノづくりにあこがれた面もあったのか、電機メーカーに勤務して、”モノ”に関わってきた。
 榮久庵さん、最近のモノづくりには粗製乱造とは言わないまでも、モノに品格(物格)がなくなり、心がなくなってきたという。
 日本人として「仏教」ならぬ、「物教」を考えさせられる、興味深い本でした。