「生死の覚悟」(南直哉と高村薫)[新潮新書]

「生死の覚悟」という南直哉と高村薫の対談本が目に止まった。この組み合わせ、何でだろうと思って読み始めたら、高村が「太陽を曳く馬」や「新リア王」で出家して曹洞宗永平寺で修行する禅僧が南直哉にそっくりだということがきっかけでもあったようだ。
 高村は4歳でカソリックの教会に放り込まれてから大学を出るまでキリスト教の価値観のもとにいたという。それが阪神淡路大震災を契機に仏教に出会ったという。一方、南は祖母の影響で若い時にキリスト教に帰依しそうになった事もあったという。そして、・・・31歳で永平寺に入山した。 そんな二人の対談、高村の書いた「空海」、南の書いた「超越と実存」などに触れながら、空海の仏教、親鸞道元の仏教について語り合い、信仰における ”信,不信”の問題について突っ込んだ対話をしている。
 
高村が思わず「あっ!」と声を上げたという、以下の如き、『超越と実存』の中の一節
 『信ずる行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏』
『信じるという行為を脱落してしまうことによって、信じる主語である〈私〉も消えてしまうし、信じる対象、つまり「〇〇を信じる」というその対象も消えてしまう。』
『「信じる行為」を消した先に(道元の言う)「身心脱落」がある』
 
私もこの箇所を読んで、18歳のときから読み続けている歎異抄の中の疑問、念仏に対するおりもののように溜まっていたものが溶解した。
 
早速、高村薫の「空海」と南直哉の「超越と実存」を読んだ。「超越と実存」は副題の”無常をめぐる仏教史”が示すように、原始仏教から龍樹、世親、無着の大乗仏教、中国仏教、最澄空海から法然親鸞道元に至る、仏教思想史を南直哉流に鋭く分析していて、よみごたえがあった。