年賀状

 元旦、ポストに年賀状を取りに行く。誰からどんな年賀状が来ているかを読むのは楽しみだ。
昔は版画を彫ったり、プリントゴッコで印刷したりした。今はPCの年賀状ソフトがよくできていて、それで作成する人も多い。私もこの10年位PCで書いている。毎年文案を考えるのが大変だがそれもまた愉しである。
 昔は宛名と一言メッセージは必ず手書きにしていた。今は、宛名、住所印刷もきれいにできるので、宛名、住所は横着をするようになってしまった。達筆な毛筆でいただくとそれだけでありがたい。また下手な字でも、直筆だとその人の顔が浮かんでありがたい。
 宛名、文面とも印刷のままで、お定まりの年賀状で、直筆の一言もないのはなんとも味気ない。
いただけるだけでありがたいことだが、せめて一行でも手書きのコメントがほしい。
 また、子供、伴侶、家族の写真を印刷する方も増えてきた。夫婦ぐるみでおつきあいした方とか、子供さんのことを知っている場合、また、新婚の年の年賀状、初めてのお子さん誕生の年とかに写真入りの年賀状はそれなりに楽しめる。しかし、そうでない場合には、何か、べたっとした年賀状になって、私は好きではない。

 昔、年賀状の枚数でその人の社会的地位、信用が計れるとかいう文章を読んだことがある。私は枚数はそれほど多くないが、全員に手書きのコメントを書き添えることにしている。また、手書きのコメントを書いてくれる方からの年賀状がうれしいと思う。

 義理の年賀状も多いので、これは減らしてやめたいのだが、先方からいただくと、どうもこちらからやめるのは後ろめたい。

 中野孝次の「『閑』のある生き方」には年賀状などのつきあいからも足を洗ったという文章があった。中野さんは78歳?で亡くなったから、晩年はそういう“生活”が大切だということも理解できる。しかし、退職したばかりの私は、まだそこまでの心境にはなれない。

 皆さんがもっとブログを見てくれて、また、ブログをやるようになれば、自分の年賀挨拶はブログに書いて、アナログ年賀状は限られた人、限られた枚数にできるのだが・・・。