お蔭様

 最近の若い人は、「お蔭様で」ということをあまり言わないようだ。魚屋だった親父が“お蔭様で息子も高校に合格しました”とか、なにかと、「お蔭様で・・・」と、お客さまに言っていた。まだ若くうぬぼれも強かった私は、中学、高校くらいの時は「あんたのお蔭じゃないぜ、自分が努力して受かったんだ!」という“自力”の慢心があった。
 仏教哲学に興味を持ち始めてから、また、生命科学、遺伝子関係の本を読み始めてからやっと「お蔭様」の意味が分かってきたようだ。それでも若いときは、まだ、頭で「お蔭様」を理解していただけで、からだ、こころで「お蔭様」が分かっていなかった。父母の死、兄の死、親族や友人の死を通して、すこしづつ“仏さま”の“お蔭”が分かってきたように思う。
 一方で新しい生命の誕生を観たり、樹木、草木の“いのちの不思議”、山川草木悉有仏性の不可思議世界がからだでわかるような気持ちになってきた。山川草木のお蔭もわかってきた。そんな年齢にもなってきたのでしょう。最近は素直に「お蔭様で」が言葉に出るようになった。

 そんな心境の昨今ですが、先日、姪の結婚式があり親族代表の挨拶を頼まれた。「お蔭様」の話をした。
 PCの漢字変換では「陰」が出てくることが多い。「陰」は間違いで、代用してもいけない。
「陰」は単にかげ、日陰の意味しかない。「蔭」は文字通り「くさかんむり」がついており、「草が地をおおい陰を作る」という原義から「たすけ、ちから、おかげ」と辞書で説明がある。文字通り“草葉の蔭”から【ほとけさま=Something Great】が見守っていてくれてるというわけだ。「蔭官」(=“父祖のお蔭で官職につくこと”)、「御蔭年」(=“神の御蔭をこうむる意から”伊勢神宮遷宮のあった翌年)という言葉も辞書を引いて初めて知った。

 若い二人に、父母兄弟、友人、知人はいうまでもなく、鳥獣魚類、山川草木にいたる全ての生きとし生けるものに対する感謝の気持ち、「お蔭様」のこころを大切にして、素晴らしい家庭を築いていただくようお願いした。