ミロのヴィーナス

  ルーブル美術館展を見てから、図書館で赤瀬川原平の「ルーブル美術館の楽しみ方」という本を借りて読んだ。赤瀬川流美術館の楽しみ方、絵画の見方などがユニークで面白かった。絵画、彫刻だけでなく木の床、石の床を鑑賞したり、正面からの鑑賞では気がつきにくい油絵のヒビの入り具合を眺めるとかといった楽しみ方もあることを教えてくれた。
 芸大出の画家でもある赤瀬川さんですら、すべての絵画、すべての彫刻をくそまじめに見ているわけではないということを知って安心した。要は絵のよく分からない素人が無理にわかろうとする必要はないということだと思う。ただ、赤瀬川さんのこの本で絵画の鑑賞の仕方の一つが理解できた。また、美術館で双眼鏡で絵画を鑑賞する意味も教えてくれた。絵画の主題から外れた背景や小さな部分にむしろその画家の本音や遊びを発見するなどという視点があることも分かった。

 この本の中で彼は、“ミロのヴィーナスに見る、侘び、寂び" について述べているところが面白かった。
 この両腕のないミロのヴィーナスに未見の両腕を想像させるところに味わいがある。また、完成を回避するものの美しさ、付け加えるのではなく、削り落としたものの美しさがある。
両腕の想像復元像もあるのだが、まったく味わいがないという。私もインターネットで見たがまことにつまらないと感じた。赤瀬川さんはこのミロのヴィーナスは、利休の侘び茶碗に通じるものであり、西洋の感じた侘びであるといっている。
 「日本人は侘び寂びという言葉をもってその感覚を意識の上に留めた。西洋人はそういう言葉を見出さぬまま、感覚が放浪することになった。」と赤瀬川さんは言っている。面白い指摘だと思った。

 ところで、ミロのヴィーナスの「ミロ」って何だろうと調べてみた、ナニ!Henryはそんなことも知らなかったのかと馬鹿にされそうですが、発見地メロス島の英語風名称とのことだった。
 ついでにヴィーナスも調べた。ビーナス(Venus)はローマ神話の愛の女神ウェヌスVenusの英語読みでギリシャ神話のアフロディテにあたるとのこと。ローマ神話ギリシャの神々と類似の性格を持つローマ古来の神々とを同一視して、ギリシャの神話伝説を模倣してローマ人が創造した物語という。ギリシア神話は高校時代に読んでオイディプスの話しくらいしか憶えていない。これを機に読み直してみたいと思う。
 ともかくも、ヴィーナスはつまりはアフロディテなのであります。話は飛んでしまうが、八百万の神々をいただく日本人と同様、かって数々の神をいただいてきたギリシア人は現在95%が一神教であるキリスト教ギリシャ正教に属しているという。
 ギリシアには“神社”はない。ギリシアには行ったことがないけど、古い街の中には、酒の神“バッカス”や“アフロディテ女神たちが祭られているのだろうか。ギリシア人にとっては今でも彼らは「神」なのだろうか。日本人は“神も仏もあるもの”と信じているのだが。そんなことを考えたら酔いが覚めてきた・・・。
 水割りをもう一杯、Jazzを聞きながらアフロディテに思いをめぐらせて眠りにつこう。