「人はなぜ花を愛でるのか」日高敏隆・白幡洋三郎 編

 日野敏隆さん編ということと、題名に惹かれて図書館で借りて読んだ。この題でのシンポジウムに参加した各界の権威や大学教授の話をまとめたものだった。主題は良いのだが、ちょっとまとまりに欠け、この本を通じての一貫した主張にかけていた。
 しかし、以下の話は、人類がいつ花を愛でるようになったかの起源ではないかと教えられた。
 われわれホモ・サピエンス(新人)とは別の種類の人類で、ホモ・サピエンスに滅ぼされたとされているネアンデルタール人旧人)の埋葬人骨の化石の周りの土壌から、ノコギリソウ、スギナアザミ、ヤグルマソウ、ムスカリタチアオイ、など8種の花粉が発見されたという。ヤグルマソウやタチアオイがそんな昔からあったことも驚くが、6万年前の旧人類が既に死者の埋葬に花を(愛でて?はなむけ?)添えていたというわけだ。
◆「花を贈るということ」と題する文章も面白かった。
 日本人には西欧人のように日常的に女性に花を贈る習慣はもともとなかった。最近でこそ、若い人たちはこだわりはないのだろうが、私の年代ではそういう習慣はなかった。アメリカに7年住んでいたこともあって彼らのまねをして何度か花を贈ったことはある。でも、正直なところなんとなく落ち着きが悪い。
 この文章の中でこう言っている。日本人にとって、花の贈呈は贈る側と贈られるとの関係は対等ではない。「はなむけ」は「馬の鼻向け」から来ているとも言うが、もともと送る側が、花を飾りたてて別れの宴を催すことからきたという。花を贈る側、贈られる側の間には常に一線が引かれているという。贈る側と、贈られる側が、生と死、衆生と仏、残るものと、旅立つ者等、立場、次元を異にする間で贈答が行われるという。なるほどとうなづける論理だ。そう言えば、松岡大臣の葬儀には道路にあふれんばかりの供花が“贈られ”ていた。
 芸人、力士への心づけを「花」、歌舞伎の「花道」、「花形役者」、芸者や遊女の料金の「花代」、これらも対等な関係で贈答されるものではないということも納得させられた。

◆日本語の花は草花の花も樹木の花も「花」に違いはない。英語で花はflowerかblossom。どう違うかの説明が書かれていた。flowerは「鑑賞として茎までも含める」に対し、blossomは「花よりもむしろその後の果実や種などに重点がある」とのこと。
 だから、西欧人にとっての桜は「cherry」に重点があって、「Sakura Flower」ではなくて、「Cherry Blossom」なのかと合点がいった。
 “人はなぜ花を愛でるか”の答えを期待して読んだが、明快な答えは得られなかった。しかしながら、もう一人の編者である白幡洋三郎さんが、あとがきの中で次のように述べていることが印象に残った。
 「“人はなぜ花を愛でるのか”それは、人間と神仏との間、他者との間を取り持つ『なかだち』の役割を花に期待しているからではないだろうか」