美空ひばり 生誕70年 その1

 NHKラジオで美空ひばり生誕70年の特別番組を二日連続で放送した。ひばりが亡くなったのは1989年、52歳の時だった。
 ○○生誕○○年というのは、宗教家とか、文豪など、歴史上有名な人の場合であって、亡くなってから20年足らずの方でというのは珍しいのではないだろうか。美空ひばりの存在がそれだけ稀有のことだったのだろう。歌手、芸人では聞いたことがない。古賀政男などにも生誕○○年があったのだろうか。
美空ひばりが生まれたのは1937年、私が1944年生まれだから、私が1歳のときには初舞台を踏んだわけだ。ひばりは魚屋の長女、私の実家も魚屋だった。幼心に同じ魚屋でもこういう人がいるのかと思った。私には9歳上と5歳上の姉がいる。ひばり年代だ。家のラジオから流れるひばりの歌、姉たちがよく口ずさんでいたひばりの歌のほとんどが、今でもほとんど耳に残っている。
 「悲しき口笛」「越後獅子」「私は街の子」などマイナーな哀しげな曲が好きだった。
NHKの放送の一日目は、川田晴久の娘さん(岡村和恵)の語りと思い出話。美空ひばりが師匠とよんだのは父親と川田晴久だけとのこと。川田晴久美空ひばりの才能を見出し、売り込み、育てていったようだ。こぶしは川田から学んだという。
この川田晴久、「あきれたボーイズ」を結成後、「川田晴久とダイナブラザース」というグループで、あの「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう。西の国ならヨーロッパ、東の国は東洋の・・・」という歌に始まる漫談は印象に残っている。小学校5,6年のころだったのだろうか。TVのないころ、やっと地理を勉強したころだろう。当たり前のことだが、「地球の上に」の出だしと、あとの内容が面白かったことを思い出す。
◆この川田晴久がグループの何人かとひばりを連れて戦後間もないサンフランシスコ、ロスアンゼルスに公演に行った時のエピソードや、ホテルでの仲間内の団欒風景を録画したものを放送してくれた。 スペンサー・トレーシーやライオネル・ハンプトンほか、当時のハリウッドの一流スターに会った話など面白かった。
 カントリーウェスタン調の曲を歌っているのも初耳だった。
日本の芸人だけでなく、小さい時から世界のエンターテイナー達から学んでいたようだ。
 <続きはまた明日>