「てつがくを着てまちを歩こう」(鷲田清一:ちくま文庫)

 ちくま文庫のPR誌に紹介されていて、面白そうなので読んでみた。題名が、キザッペUnchiku Henryにぴったりではないかと思ったわけだ。もっと哲学を語っているのかと思いきや、なんと、小生には縁の薄い、「モード論」というか、「モード哲学」なのでした。舞妓さんと修行僧の衣装の対比、山本耀司、三宅一成などのファッションを論じている。昨今のキャミソール(下着ファッション)やコスプレ、ストリート系など、Henryに縁の薄いファッションの世界、哲学を教えてくれた。
 単なる、ファッション比較論や、文化論ではなく、人間と衣服の関係を哲学的に分析している視点が新鮮だった。
 「おしゃれというのは、自分を着飾るということではない。むしろそれを見る人への気配り、思いやりだと考えると、服を選ぶときのセンスが変わってくる。他人の視線をコーディネートするという発想、そういうホスピタリティーがファッションで一番大切な要素だ」という。
 そうだよな、自己満足だけで、太い脚にミニスカートや、見たくない尻出しルックはホスピタリティーに欠けると思うのですが、これもオジンの繰り言だろうか。
 九鬼周三の「『いき』の構造」に触れながら江戸のひとの「いき」というのは、「あかぬけて、張りがあって、色っぽい」ことだという、九鬼周三の定義を引用する。また、「『いき』とは諦めと、意気地と眉態が織りなす綾のことだと、鷲田氏は言う。
「きものを着た老婦人の美しさは、布がつくる直線的な折り目が肉体的な枯れを逆に端正さに変えるところにある。美しい肉体を浮き彫りにする若い女性のスキンコンシャスは服と違って、布と身体と、そしてその間にはらまれた空気とのアンサンブルに深い味わいがある。」
 なるほど!うまい表現をするものだ。“空気の配置”という表現もしている。昨今はいつまでも若いつもりの(若くありたいという)おばさん族が、まだ私のバストは若い子に負けないわよと言わんばかりに、“空気の配置”を考えていないTシャツやタンクトップ姿を見せられると、暑苦しくなる。
 そういう、Henry、お前のファッションはどうなんだと言われると、他人さまのファッションをとやかく言える資格はない。それでもビジネスマンをしていた時は、毎日背広とネクタイは変えていた。高いブランド物のスーツやネクタイは数えるほどしかない。ネクタイも安くても色や柄の面白いもの、スーツやYシャツによって毎日組み合わせを楽しんでいた。それほど衣服に金をかけられる身分ではなかったので、チープシックでむしろ数を楽しんだ。だから、衣替え時の洗濯代が高く着いた。退職した今はスーツを着ることは年に数えるほどしかなくなった。家人からは自分(女)より洋服が多いと、本同様、これまた、処分を要求されている。
 「服を着替えるというのは、自分にしみついた身体感覚や人格イメージに違和感を感じて、それを脱ぐという意味を持つ。自分の存在モードの変化を求めて服を着替える。イメージを着るという視点、イメージを脱ぐという視点が必要だ」と言う。
 退職した当初は、スーツを脱ぐ、スーツを着る必要がないということに一抹の寂しさを感じた。退職して1年半、ようやくスーツとネクタイを着ることに違和感を感じるようになってきた。
 Henryも新しいイメージを着るべく、今年の夏は、作務衣や浴衣を着ようかな。