「邂逅」(多田富雄+鶴見和子)

 「人間のゆくえ」(山折哲雄多田富雄)を読んで、多田さんが最近どうされているのかとインターネットで調べ、最近の著作があるということで図書館を検索し、鶴見和子さんとの往復書簡集「邂逅」を読んだ。
 多田さんの脳梗塞のことは知っていたが、鶴見和子さんも脳出血で倒れたということは知らなかった。お二人が倒れる前に、藤原書店での二人の対談が計画されていたのだが、多田さんが倒れたことによって実現できなかったとのこと。お二人が、病の後、リハビリをされて、多田さんはワープロでの文章作成、鶴見さんは音声テープという形で“対談”=往復書簡が実現したものだ。

◆ウィキぺディアからの引用でお二人を紹介しよう。
 鶴見さんは、長く上智大学の教授を務めていた。上智大学名誉教授。国際関係論などを講じたが、専攻は比較社会学南方熊楠柳田国男の研究、地域住民の手による発展を論じた「内発的発展論」などでも知られる。「南方熊楠」では毎日出版文化賞を受賞した。
 元東京工業大学教授で、アメリカのプラグマティズムの紹介やベ平連の設立者として知られる哲学者鶴見俊輔は弟。祖父は南満州鉄道初代総裁後藤新平、父は元厚生大臣鶴見祐輔。父方の従弟にベ平連の中心メンバーだった人類学者鶴見良行。母方の従兄にインターナショナルの訳詞者となった共産党系演劇人佐野碩と武装共産党時代の指導者佐野博(碩と博の叔父が、元日本共産党委員長佐野学)。さらに母方の一族には講座派の論客平野義太郎がいるといったエスタブリッシュメント家庭に育つ。
 津田英学塾(現在の津田塾大学)を卒業後渡米し、1941年ヴァッサー大学哲学修士号取得。1942年に日米交換船で帰国。戦後は共産党員として活動した時期もあった。1946年に鶴見俊輔丸山真男などのメンバーと「思想の科学」を創刊。ブリティッシュ・コロンビア大学助教授をつとめたのち、1966年にプリンストン大学社会学博士号を取得。

 Henryとは月とすっぽんの血統書付きだ。
 多田富雄さんはわが母校の先輩。学部は違うがこういう先輩がおられることが嬉しい。 
多田富雄> 
 千葉大学医学部卒業後、千葉大学東京大学教授、東京理科大学生命科学研究所所長を歴任。1971年に抑制T細胞を発見するなど免疫学者として活躍する傍ら、能の作者として知られ、脳死の人を主題にした『無明の井』、朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタイン相対性理論を主題とした『一石仙人』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』がある。『免疫の意味論』(青土社、1993年)で大佛次郎賞、『独酌余滴』(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイスト・クラブ賞をそれぞれ受賞。その他にも朝日賞(1981年)、文化功労者などを受賞。共著・編著などの著作が多数ある。

2001年に滞在先の金沢にて脳梗塞となり声を失い、右半身不随となるが執筆力は衰えず、往復書簡として鶴見和子と『邂逅』(藤原書店)、柳澤桂子と『露の身ながら』(集英社)をそれぞれ刊行している

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 多田富雄さんの「免疫の意味論」「生命の意味論」鶴見和子さんの「南方熊楠」などを読んでいたので、脳梗塞脳出血で倒れたお二人が、どういう内容の往復書簡を書いているのかと興味を持って読んでみた。 免疫、自己と非自己、寛容、スーパーシステム、生命、いのち、死、能、etc.一通一通のやり取りが、知的興奮と緊張感をもって一気に読まされた。多田さんの創作した、アインシュタイン相対性理論を主題とした『一石仙人』という能をぜひ見てみたいと思った。もっともっとお二人の往復書簡を読んでみたいと思ったが、残念ながら、鶴見和子さんは、昨年7月、88歳で大腸がんのために亡くなられた。またひとり、素晴らしい“知の巨人”を失ったことが悔やまれる。「鶴見和子・対話まんだら」や「南方熊楠・萃点の思想」などの本を読んでみたいと思う。