「歌謡曲の時代:歌もよう、人もよう」(阿久悠:新潮社)

 阿久悠の「書き下ろし歌謡曲」を読み返そうと思って家じゅうを探したが見つからない。捨ててしまったか、姉にあげてしまったのかわからない。阿久悠の書いたものが読みたくなって、図書館で検索したら数冊あった。「歌謡曲の時代」という本が面白そうだったので借りた。“序にかえて”を読むと、彼が書いた詞のタイトルを現在のエセーの題名として使うとしたら、何が見えますか、というモチーフで書いたという。
 というわけで、「どうにもとまらない」は昭和47年、田中角栄の列島改造論真っ最中に、それこそ“どうにもとまらない”経済成長を背景に書かれたというなど。「北の宿から」では、淡谷のり子がえらくご立腹で、「大体ね、別れた男のセーターなんか編むんじゃないの。みっともない!」とTVで逆上しているのを見たという話などが書かれている。なるほどそりゃそうだ。ところが、阿久悠は、「この女性のことは一般的にいじらしいと考えているが、そこが違っている。いじらしい前提があるので、編みかけのセーターを自分のものとヤニ下がるが、とんでもない話なのだ」という。確かに、まだ若かったHenryもあのフレーズ、“着てはもらえぬセーターを、寒さこらえて編んでます”を聴いたときは、こんなタイプのいじらしい女性と恋をしたいと思わせられた。都はるみの歌いっぷりがまたよかった。
 阿久悠は、「この女性は相当の性根の持ち主で、セーターにしたところで、編み上げてケリをつけたかったに違いない。完成したら、ポイと誰かに上げる。ぼくはそう思っていた。しかし、いじらしいと誤解されたために売れたのであろうから、誤解は誤解でいいが。」と書いている。
 小説だけでなく、歌も作者の意図とは異なる解釈をされ、ひとり歩きし出すものなのだなと教えられた。ことほどさように、阿久悠が歌のタイトル、歌の詞に込めた、感情や時代背景と、現代(この本を書いた、平成14年から16年)とを対比しながら語っている。阿久悠の多くの歌、詞を通じての昭和史ともなっているところが昭和世代のHenryには懐かしく、面白く読ませてもらった。
 阿久悠は、この本の中で、「歌謡曲は時代を飲みこみながら巨大化していく妖怪のようなもの。昭和の歌は世間を語ったが平成の歌は自分だけを語っている。」という。全く同感だ。だから、私も今の若者たちの歌に感動するものが少ないのだろう。しかし、一方で今の若者(自分の息子達)にとっては、歌に“世間を語って”もらうニーズがないのではないかと思う。今度息子達と酒を飲むときに話し合ってみたいと思う。
 また、阿久悠は「歌謡曲は流行歌とは違う。流行歌はPopular Song、歌謡曲は時代を食って色づき、育つ。時代を腹に入れて巨大化し妖怪化する」、「昭和にあって、平成にないものは“こころ”、平成の歌にミュージックはあるが、ソングがない。」、「昭和とともに終わったのは歌謡曲ではなく、人間の心。」「昨今のすさんだ平成の時代にあって、“歌謡曲の不良性”は黙るしかなかった。」
「昭和は人間の歴史に景色が寄りそっていた。」と書いている。
 これらの言葉を、昭和の老作詞家の繰り言と思ってはならない。
この本を読んで、改めて、阿久悠の“美しい”日本語の言葉選び、言葉使いに感心させられた。
 この本をちょうど読み終わったら、NHKのTVで阿久悠特集をやっていた。今まで聞き流していた曲の歌詞や振り付けを観て、また、この本に書かれていた、作詞の背景を思い出しながらの視聴は味わいが倍加して楽しかった。