虫の知らせ、“虫の来訪”:すいっちょん
先日、“虫の知らせ”のことを書いた。私自身は“虫の知らせ”を体感したことはまだない。しかし、“虫の来訪”を経験した。そのことを書いてみました。
あれは父の通夜のことだった。父が死んだのは今から20年前のことだった。次兄と私、親父の丁稚奉公時代からの友人、有楽町のだるま寿司の主人と4人で、通夜客の帰ったあと、棺の前で昔話をしているときだった。青いバッタ、スイッチョンが棺にとまった。 あっ!、おふくろが親父を迎えに来たんだ!と私と兄が叫んだ。おふくろは私が4歳、妹が2歳の時、6人の子供を残して、40歳で他界した。その後、親父は料亭も店終いせざるを得なくなり、包丁一本の魚屋になった。色々なことがあったのだろうが、親父はその後、仕事は何とか続けたものの、アル中一歩手前のような状態で、あとを継いで店のやりくりをした長兄と、しょっちゅう親子げんかをしていた。小さかった私には親父が当時どんな心境にいたのかは知るよしもなかった。
あれは、たしか私が小学生の頃だったと思う。夏の昼間、親父は昼から酒を飲んで、いい機嫌だった。そこに、青いスイッチョンが飛んできた。何を思ったのか、おやじが「母ちゃんが来た」と言って、そのスイッチョンをつかまえて、ムシャムシャと食べてしまったのだ。スイッチョンというバッタ、ご存じだと思いますが、黄緑色の何となくとげとげした気持ちの良くないバッタです。いかに酒を飲んでいるからとはいえ、目の前でそれをムシャムシャ食べる光景は強烈な印象で脳裏に焼き付いていました。
親父がスイッチョンを食べた頃には、まだ近くに田んぼもあり、夏から秋には、虫の声も賑やか、家の近くに虫もよく飛んできた。親父の死んだときには、既に店の周りは全て住宅地になっており、しかも、数年バッタや昆虫などが飛んでくることはなかった。その通夜の晩に限って、親父が食べたものと同じスイッチョンが棺に止まって、一晩中棺の周りをうろついていた。朝になったら、スイッチョンの姿はなかった。
おふくろが迎えに来て二人であの世に行ったのだろうか。
これは単なる偶然の出来事の重ね合わせなのだろう。しかし、人間の心には、親父がスイッチョンに、おふくろが来たと思わせ、通夜の晩に、おふくろが親父を迎えに来たと思わせる何かがあるのではないかということを、信じてもいいのではないかと、私は思う。
科学的には何ら根拠のない話だ。しかし、こういうことを単なる偶然と切り捨てない心が、人のこころにうるおいを与えることになるのではないかと思う。
今、霊感ものや、オカルティックなものがTVでも人気番組になっていて、ちょっとしたブームになっている。かなり商業的でやらせ的なところもあるようです。しかし、わたしは、霊視、念視、念力、予知能力etc. これらのものが全て根拠のないものだとは思えない。いかがわしいものも多くある一方、こういった現象を、なんとか科学的に分析し、証明しようとしている科学者も多くいる。まだまだ科学で証明されていないこと、世の中、人間、生物の不思議がたくさんある。全てとは思わないが、それらの中のいくつかは、いずれ科学で証明されるときが来るのではないかと思う。
一方で、いくら科学が進歩しても、人間、生物の生命(いのち)、こころの神秘については、永遠に解明されないだろうという思いが強くある。人間が原始の頃からから抱き続けている“神の概念”をたいせつにすること、“Something Great”を畏敬するこころを失ったらば、それは人間をやめるときではないか。
私は、そういう気持ちを大事にし、Somethig Greatを大切にしていきたいと思う。