大学卓球部創部60周年記念祝賀会 &『児島高徳』

 我が母校の大学卓球部が創部60周年を迎えた。永年卓球部顧問をしていただいた卓球部先輩(2年先輩)のA教授の退任祝賀会も兼ねて、先週の日曜日(7月12日)に開かれた。
 我が大学の卓球部は、昭和24年(1949年)創部ということになる。この日参加したのは現役9名を含めて総勢132名、最年長は昭和29年卒の方だから、78歳前後になる。私が現役の頃の先輩や後輩と40数年ぶりの再会もあった。
 頭がはげた人、白髪になった人、しわが増えた人、未だに若々しい人、色々だが、40数年ぶりでもすぐに誰だか分かり合えるところがいい。私は憶えていないのだが、2年先輩のFさんから、「お前はよく歎異抄の話をしていた」といわれた。どうも理屈屋Henry、学生の頃から先輩にも能書きを語っていたようだ。もう一人の先輩Kさんとは、「児島高徳」の歌の話で盛り上がった。児島高徳という人は、南北長時代の武将で、1331年の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号した武将。江戸時代以降、南朝の忠臣として讃えられ、特に皇国史観の下での学校教育において忠臣・児島高徳は絶好の教材となり、その結果、国民的英雄のひとりとなった。
 その児島高徳を讃える歌が文部省唱歌として戦前はよく歌われたようだ。皇国史観に利用されたことは気にくわないが、『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ。時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』のところは詩吟調に歌われ、なかなか素晴らしい詩(うた)だ。(歌詞は文末に記載)
 私が小学生の頃、家に来た親類か、親父の飲み仲間か、誰が歌ったのか憶えていないが、印象に残る歌だった。歌詞も旋律も何となく憶えていた。大学の何かのコンパか合宿の時に、K先輩がこの歌を歌い、私がこの歌を知っていたことが先輩の記憶に残っていたようだ。
 高校・大学と同じ卓球部で過ごした後輩とも40数年ぶりに再会した。実業界で社長や役員、教育界で校長先生や教授になっている人も多い。偉くなっていようがいまいが、現役時代の先輩・後輩の間、呼び捨てにできる、呼び捨てにされるところがまたいい。
 同期で参加したのは私一人だったので、一級下の後輩の3次会にも参加させてもらった。昔話に花が咲き、しばし、シニアの自分を忘れ、青春に戻って楽しい時を過ごした。
 青春時代の友と会い、こういうひとときを過ごすのは、単なる懐古趣味ではなく、老化防止、脳の活性化にもいいと何かで読んだ。
 同年代の昔の仲間がそれぞれに人生を謳歌し、頑張っている姿や話を聞くことは刺激にもなっていい。
 今年は、秋に、小学校、高校のクラス会も予定している。楽しい会にしたいと思っている。

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『児島高徳』(文部省唱歌:昭和7年『新訂尋常小学唱歌』まで掲載された)

  船坂山(ふなさかやま)や杉坂(すぎさか)と
  御(み)あと慕ひて院の庄(いんのしょう)、
  微衷(びちゅう)をいかで聞えんと、
  桜の幹に十字の詩。
  『天勾践(こうせん)を空しうする莫(なか)れ。
   時范蠡(はんれい)無きにしも非(あら)ず。』

普通、これを、「天、勾践を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ。時に范蠡無きに しも非(あら)ず。」と読んで、「天よ、越王勾践を空しく見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣がいないとも限らないのだから。」 (「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しにしてはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。