見沼区歴史散歩

 地元の公民館主催の歴史散歩に参加した。アクティブシニアの方々10名ほどの男女が、元小学校の校長先生の案内で、見沼区の教育に貢献した名士に関すること、その人達に関わる墓や寺を見て回った。普段、車で走っていては見過ごしてしまう馬頭観音や庚申塔などの説明も聞いた。それぞれが、いつどういう目的で建てられたかを、彫られている文字から読み解いて解説してくれた。
 なるほど、そういう風に庚申塚や馬頭観音を見るものかと教えられた。
 見沼区七里の駅近くに大円寺というなかなか立派な寺がある。このあたりの町名は風渡野(ふっとの)といい、この大円寺に風渡野学校があったという。学校開設は明治5年(1872年)、地元の松澤恒次郎(象山)と後に総理大臣になった清浦奎吾達によって開設された。
 清浦奎吾は熊本県出身の人だが、23歳で大教授心得として風渡野学校長を勤めている。その後、埼玉学校改正所主任になり42歳で貴族院議員、内務司法大臣、農商務大臣、枢密院議長などを歴任した後、1924年内閣総理大臣になったという。
 しかし、末期自民党政権のようにわずか半年の短命つなぎ政権だったようだ。とはいえ、地元に関わりのある人が総理大臣になっていたことをこの日まで知らなかった。
 我が町、さいたま市見沼区には「松澤」という表札のかかった大邸宅があちこちにある。このあたりの名家なのだろう。松澤恒次郎という人がいて、1831年見沼区の蓮沼に生まれ、国学、漢学を修め嘉永4年(1851年)から寺子屋で教え、門弟は35ヶ村数百人に及んだという。風渡野学校教員を皮切りに、明治18年、大和田学校の校長で退職し、明治19年から私立朝陽学校を主宰したという名士だったとのこと。
 松澤家の子孫があちこちで大邸宅を持っていることがこれで分かった。
 私の高校時代のクラスメイト(若くして交通事故で亡くなったが)に松澤という親友がいる。ご両親も先生、奥さんも教員だった。弟さんが京大の霊長類研究所の「あい」ちゃんの育ての親、松澤教授だ。松澤家の話を聞きながら、ひょっとしたら、我が親友もこの松澤家の親類なのではないかと思った。松澤家には教育者の遺伝子が強く受け継がれているのだろうか。
 車では通れないような民家の間の細い道を歩きながら、民家の花や木の実の説明も受け、小さな神社の石碑の説明や、所々にある墓碑の説明も受けた。こういう郷土史に詳しい方に案内してもらいながらの、楽しい歴史散歩(約一万歩)でした。