「常陸の古刹と史蹟を巡る」研修旅行 <その5>常陸国国分寺跡

 国分寺といえば、聖武天皇が全国に741年(天平13年)、国情不安を鎮撫するため、各国に建立を命じた寺院。正式名称は、国分寺金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

 各国には国分寺国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国東大寺法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺国分尼寺の総本山と位置づけられた。 
 
 昔、受験用の日本史で勉強したはずなのだが、国分尼寺のことは記憶になかった。我が生まれ故郷の市川にも下総国国分寺があったが史蹟しか残っていない。国分という地名は残っている。東京には国分寺市があり、武蔵国国分寺は今も残っている。
 ウィキペディアで調べると、全国に71箇所の国分寺が建てられたが、律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺国分尼寺の多くは廃れたようだ。ただし、中世以後もかなりの数の国分寺は、当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、あるいは後世において再興されるなどして、現在まで維持しているところもある。
 71箇所の国分寺が、今も全て残っていたら、どんなにか素晴らしかっただろうか。
 ここ常陸国国分寺も、往時は金堂、講堂、中門、回廊、七重塔、仁王門等があり、寺域は東西約270m南北約240mの規模だったという。今は礎石を残すのみで寂しい限り、想像力で聖武天皇の御代に、全国に仏教を拡大していった時代に思いを馳せるばかりであった。