『私の國語教室』(福田恆存)

私の国語教室 (文春文庫)

私の国語教室 (文春文庫)

 大阪の友人Sさんの勧めで読んだ。文章読本のような、国語に関する本かと思いきや、現代仮名遣いを批判する、歴史的仮名遣いの本だった。この本、全文歴史的仮名遣いと旧字(漢字)で書かれている。読むのに支障はないが、とても書けるものではない。
 戦後の現代仮名遣いでの教育を受けた、国語嫌いだった私には現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの違い、区別はほとんど何も知らなかった。

 百人一首はもちろん歴史的仮名遣いである。
 小六の時、先生が毎日百人一首を黒板に2首づつ書いて、覚えさせられた。意味もわからずだったが、なんとなくみな覚えた。
 卒業式間近に机を寄せて、床の上で源平に別れて百人一首大会をやったのが今でも思い出になっている。

 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山(持統天皇
 忍ぶれど 色に出にけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで(平兼盛
 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われてもすゑに 逢はむとぞ思ふ(崇徳院
 これらの歌が、単純に昔の人はこう書いて括弧内のように発音したんだと思っていた。
 衣干すてふ(ちょう)、思ふ(おもう)問ふ(とう)、逢はむ(あわん)

 小中高とまともに現代仮名遣いと歴史的仮名遣いの違いを習った
記憶はない。高校の古文の授業で昔はこう書いていたのだということを学んだが、なぜそう書くのか、現代仮名遣いとどうして違うのかを教えてもらわなかったと思う。
 
 福田恆存のこの本を読んでその違いが良く理解できた。どういうことか、以下要約すると、
 現代仮名遣いは表音的であるとするが、一部歴史的仮名遣を継承し、完全に発音通りであるわけではない。助詞の「は」「へ」「を」を発音通りに「わ」「え」「お」と書かないのは歴史的仮名遣を部分的にそのまま踏襲したものであるし、「え」「お」を伸ばした音の表記は歴史的仮名遣の規則に準じて定められたものである。

 また、現代仮名遣いは原則として口語文に就いてのみ使用される、古典文化には干渉しないとしたため、文語文法によって作品を書く俳句や短歌の世界においては歴史的仮名遣の方が一般的とのこと。

 この本、現代仮名遣いの矛盾点、問題点を克明に分析し、論破している。歴史的仮名遣いのことをほとんど知らなかった私としては、歴史的仮名遣いの方が理にかなっているし、文語文との一貫性もとれると思う。今更私が歴史的仮名遣いを使えるわけではないが、どちらを支持するかといわれれば、歴史的仮名遣いを支持したい。

 福田恆存はこの本の中で『表音的假名遣は假名遣にあらず』(橋本進吉/昭和十七年八月)の以下の文章を引用して説明している。

 仮名遣いは、音のよってではなく、實に語によつてきまるのである。「愛」も「藍」も「相」も、 その音はどれもアイであつて、そのイの音は全く同じであるが、「愛」は「あい」と書き「藍」は「あゐ」と書き「相」は「あひ」と書く。同じイの音を或は「い」を用ゐ或は「ゐ」を用ゐ或は「ひ」を用ゐて書くのは、「愛」の意味のアイであるか、「藍」の意味のアイであるか、「相」の意味のアイであるかによるのである。單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。

 歴史的仮名遣いの細かい規則と例外表示などはこの『私の國語教室』の中で詳しく論じられている。ご興味のある方は是非ご一読をお勧めします。
 たとえば、あじさい(紫陽花)は歴史的仮名遣いでは「あぢさゐ」が正しい。「あぢ」の語源は“群集”で群れること、「さゐ」は「さあゐ」から、「さ」は「真(さ)」、「あゐ」は「藍」から来ているという。
 なるほど、群れ咲く真の藍色の花を意味する言葉だったのだ。
漢語の「紫陽花」もアジサイとカタカナで書くより味わいがあるが、「あぢさゐ」の方が花の雰囲気をより表しているように思う。

蛇足ながら、古語辞典では「あぢさゐ」で引けるが、国語辞典では「あじさい」しか表示されていない。また、「あじさい」で引いて、歴史的仮名遣いの「あぢさゐ」の表記があるのは、広辞苑新明解国語辞典新潮現代国語辞典、などいくつかに限られる。
 今回、『私の國語教室』を読んで、国語辞典、古語辞典などを何度か引いた。日本人として、日本語のことをまだまだ知らないことが多かったことに気がつくと共に、いろいろと反省させられた。

 今日のブログも長くなった。Henryのブログは長すぎるとよく言われるので、この辺で取りあえず今日はおしまい。