行基を読む その3 「行基と律令国家」(吉田靖雄)

 A塾のT先生が「行基と律令国家」を読んでおられたので、図書館から借りて読んだ。かなり専門的で小生にはちょっと手ごわかった。
 行基の出自は応神朝に百済から来朝した、王仁(わに)を祖とする高志(こし)才智を父として生まれたとある。役小角同様、この時代には渡来系の人が、宗教・文化・各種技術を日本にもたらしたようだ。
 公伝として日本に入ってきた仏教とは異なり、日本古来の自然宗教との融合を図りながら、公伝よりも早く、ヒンズー教儒教密教などの思想を含んだかたちで、山林宗教、山岳宗教と一体化してきたのではないだろうか。
 行基は瑜伽師地論や唯識を学んだと言われているが、それ以前に、三階教の影響を受けていると言う。三階教というのは初めて知ったが、三階教(さんがいぎょう)とは、北斉の信行(540年 - 594年)が開いた仏教の新しい教派である。三階とは、正法・像法・末法という仏教の三時観を、第一階・第二階・第三階という独自の用語で呼んだことに由来する。末法思想については浄土教末法思想と同様、、大乗仏教の思想の延長線上にあるが、仏教の汎神論性を捨て、一神教的な傾向を持つに至ったのに対して、三階教の教義は、仏教が本来もつ汎神論性を更に一歩推し進めたものとも受け取れるという。
 行基は、斉明・天智朝の仏教から天武・持統朝の仏教への変遷の中、山林修行を重ね、各種の社会事業を展開しながら、行基集団を拡大していった。さらに律令体制の中、三世一身法のなか聖武天皇橘諸兄らにとりいれられ、大仏建立の責任者、大僧正に任じられていった。
 行基の思想は、法相をベースに、自然信仰、山岳宗教を織り交ぜ、「福田思想」に基づき、各種社会事業の実践をしてきたのではないか。「福田」とは、「善行の種子を蒔いて功徳の収穫を得る田地」のことを言い、「田に能くものを産せるが如く、之に施せば能く福を生ずるもの」、“布施する物品を種子、布施の受者を良田に擬す”という考え方である。
 前にも書いたように、行基の思想、行動の規範となったものは書き残されていないが、行基集団の民衆の導者として、各種社会事業、宗教文化活動の実践・行動のリーダーだったことは間違いない。
 行基の人物、思想、業績をもっと広く日本人に理解してもらうためにも、だれか小説家が「行基伝」を書いてもらいたいと思う。
 以下はこの本のamazonからの解説です。ご参考まで。

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 大乗菩薩道の実践に努めた高僧行基の伝記を通して、仏教と政治との葛藤を典型的に示す行基の行動と律令国家の対応を考察する。政府はなぜ行基の徒を抑圧したのか、行基の仏教思想はいかなるものか、山林修行者から聚落の朋党仏教へ転換した契機は何か、四十九院の位置の比定など、新見解を随所に示す。