〈孫の成長 人間の二足歩行〉

 三人目の孫が二足歩行を始めた❗七八ヶ月の匍匐前進から、あれよあれよの内にハイハイをするようになり、更に、椅子やテーブルを伝って伝い歩きをするようになった。
 人間の二足歩行がどのように始まったのかググってみたら。美味しい食べ物を一回の運搬で、仲間よりもより多く持ち運ぶために進化したことがチンパンジーの実験で証明されたようだ。
 孫を見ていると、立ちたい、歩きたい、手が届かない所のものを触りたい、見たい、取りたいと言う欲望とが強いようだ。
 そういう孫の一挙手一投足を見ているだけで飽きないし、楽しいものだ❗この孫、私に似ず体育会系の様で筋肉の発達がよく力が強い。まだ十ヶ月だが、完全二足歩行も早そうだ。ただ、まだ二三歩のヨタヨタ歩きなのに歩けると思っているのか、あるきたい気持ちが先に立って、二三歩で転倒する。
 孫の日に日にの成長を見ていると、改めて、人間というものの素晴らしさに感動する。

〈幼児とオモチャ〉

 3人目の孫が8ヶ月を過ぎた。日一日の成長が目覚ましい。嫁さんの実家や友人たちからいろいろな玩具をプレゼントされている。我々の何もなかった時代に比べ、幼児用おもちゃも色々と工夫されている。幼児が興味を持つ、テレビのリモコン、スマホ、メガネ、ギター、絵本等々、幼児がしゃぶっても安全に工夫されたものがたくさん売られている。
幼児の脳の発達に工夫されているのだろう。
 一方で、既成のおもちゃではなく、幼児は音の出るもの、光るもの、回転するもの、木々の葉のように揺らぐものなどに興味を示すことが多い。 
 自然の中で知恵を発達させることも大切なのだろう。これからもどんな風に知恵を発達していくのか楽しみだ❗

スマートウォッチ

以前からスマートウォッチに興味があり、広告を見て欲しいなと思っていた。価格も機能もメーカーによってまちまちである。長男にどれがいいか教えてくれと頼んでいたら、私の後期高齢者誕生日にプレゼントしてくれた。外国製なので説明書は英語のみえ英語はわかるものの、後期高齢者には難しいガジェット、長男の助けを借りて、なんとかセッティング。  歩数計はもちろん、心拍数、睡眠の状況などを測定してくれる。スマホの電話やラインの着信も知らせてくれる。卓球の運動状況もわかる。他にもいろいろ機能があるようだが、使いこなすのは大変そうだ。  後期高齢者のオモチャ、頭の体操には良さそうだ❗

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後期高齢者誕生日を迎えました❗

 本日、無事後期高齢者誕生日を迎えました。
 多くの皆様からの誕生日メッセージをいただき有難うございます。
 思えば、親父と次兄が60で死去、長兄が75歳で死去。三浦の兄弟の中では男で私だけが残っている。ちょっと寂しいが、兄たちの分も長生きしなくてはと思っている。
 体力は衰えたが、今日も4時間の卓球は楽しんだ。最近は歳の近い先輩や知人、同年代の友人、知人の訃報が増えてきた。一方、未だ現役で、テニス、ゴルフを楽しんでいるが仲間も多い。
 健康管理に気をつけて、まだまだ孫たちの成長を楽しみたいと思っています。

結石再生産❓

 昨年まで毎年10〜20個の結石を作り排出してきたのだが、今年は何故か一個も生産がない❗加齢のせいで生産力が消滅したのかと喜んでいたが、腎臓内で静かに?生産が進んでいたようだ。一週間程前から右下腹部に違和感があり、押すと鈍痛がある。近くのクリニックでエコー検査を受けると腎臓に結石ができていると言われた。
 そんなわけで、11年前に膀胱鏡や尿路手術を受けたことのある、さいたま市立病院に行った。
 14年前に肺炎で入院したこともあるこの病院、今拡張工事を進め、益々大病院になってきている。相変わらず大勢の来院者で混んでいる。
 レントゲンとCT検査で腎臓を検査。いくつかの結石があったが、すぐに何らかの施術の必要はなしとのことで、水をたくさん飲んで排出するのを待つしかないようだ。
 まずは、大事に至らずに良しとしよう❗

「生死の覚悟」(南直哉と高村薫)[新潮新書]

「生死の覚悟」という南直哉と高村薫の対談本が目に止まった。この組み合わせ、何でだろうと思って読み始めたら、高村が「太陽を曳く馬」や「新リア王」で出家して曹洞宗永平寺で修行する禅僧が南直哉にそっくりだということがきっかけでもあったようだ。
 高村は4歳でカソリックの教会に放り込まれてから大学を出るまでキリスト教の価値観のもとにいたという。それが阪神淡路大震災を契機に仏教に出会ったという。一方、南は祖母の影響で若い時にキリスト教に帰依しそうになった事もあったという。そして、・・・31歳で永平寺に入山した。 そんな二人の対談、高村の書いた「空海」、南の書いた「超越と実存」などに触れながら、空海の仏教、親鸞道元の仏教について語り合い、信仰における ”信,不信”の問題について突っ込んだ対話をしている。
 
高村が思わず「あっ!」と声を上げたという、以下の如き、『超越と実存』の中の一節
 『信ずる行為そのものを脱落してしまうことによって行う念仏』
『信じるという行為を脱落してしまうことによって、信じる主語である〈私〉も消えてしまうし、信じる対象、つまり「〇〇を信じる」というその対象も消えてしまう。』
『「信じる行為」を消した先に(道元の言う)「身心脱落」がある』
 
私もこの箇所を読んで、18歳のときから読み続けている歎異抄の中の疑問、念仏に対するおりもののように溜まっていたものが溶解した。
 
早速、高村薫の「空海」と南直哉の「超越と実存」を読んだ。「超越と実存」は副題の”無常をめぐる仏教史”が示すように、原始仏教から龍樹、世親、無着の大乗仏教、中国仏教、最澄空海から法然親鸞道元に至る、仏教思想史を南直哉流に鋭く分析していて、よみごたえがあった。