- 作者: 玄侑宗久
- 出版社/メーカー: 四季社
- 発売日: 2005/09
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (3件) を見る
玄侑宗久さんはこの「やおよろず」に焦点をあて「やおよろず的」な思想、日本の歴史、文化の「やおよろず性」の重要性を軽いタッチで訴えている。タッチは軽いが、内容はなかなか鋭いところをついている。
やおよろず的ということは、さまざまな価値を並列化して中央集権化しない、uniteしないところが良いという。絶対的な権威を持たないといってもいいだろう。歴史の上では絶対的な権威者もいただろうが、日本人民衆はそういう権威を嫌う国民性というか、遺伝子が縄文時代以前から受け継がれてきたのではないだろうか。
古代神道の「やおよろず」という基本ソフトの上に仏教、キリスト教、儒教、道教というアプリケーションソフトを開いているのが日本民族の特性である。神道は「言挙げせざるの教え」なので、言挙げする“仏教”がアプリケーションソフトとして不可欠なものとなった。という指摘は面白い。
私も玄侑さんの言うように、この“やおよろず性”を大切に保持し、これにバージョンアップした“仏教”;“新仏教”のソフトを載せた“新やおよろず教”を確立して、日本は言うに及ばず、世界に働きかけていくべきではないかと思う。
ブッシュのキリスト教、アメリカのグローバリズムの一神教と、イスラムの一神教が終わりのない争いを続けるのではなく、人類もこの辺でもう一段階進化して新しい思想、宗教を抱いて生きていくべきではないだろうか。
もちろん、玄侑さんも言うように、世界中の民族がひとつの宗教でということを言うのではない。uniteしない“やおよろず”の精神でお互いの文化、民族、宗教を認め合うという思想が成り立つのではないかと思う。そういう思想を共有していくべきではないかと考えるこの頃であります。