法然と親鸞

 今月のA塾のテーマは「法然親鸞」、田中先生が法然親鸞についてどんなお話をするのか楽しみだった。
 のっけから、真言・天台の仏教には神道思想が仏像の中表現されているが、法然親鸞の浄土系、浄土真宗の他力本願の仏教には仏像がないと言われた。
 なるほど、たしかに浄土宗や浄土真宗の寺院には阿弥陀如来始め、阿弥陀三尊像などが安置されている寺院がたくさんあるものの、法然親鸞の時代以後に作られた仏像にはそれほど見るべきものはないのかもしれない。
 特に親鸞は、生前から寺は作るな、仏像は作るな、自分が死んだら遺骨は海に捨てろと言っていた事は何かの本で読んで知っていた。
 空海密教が、大日如来天照大神であり、太陽紳の象徴であり、ある意味で神道化した仏教であるという。
  一方、親鸞比叡山を降りた後、京都の六角堂で聖徳太子信仰に目覚めたものの、その後、法然門下に入り、興福寺奏上、後鳥羽上皇による越後配流、関東での布教などを経ていく中で、神道的要素を彼の布教、著作の中で表現することはなくなったいう。
 今年、法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌が、浄土宗、浄土真宗系寺院で色々な行事が盛大に行われている。上野の博物館でも法然上人八百回忌・親鸞聖人七百五十回忌 特別展が10月25日から開催される。
 田中先生は、浄土信仰は個人宗教で、共同体宗教である神道の思想が盛り込まれていない。宗教は共同体宗教の部分と、個人宗教の両面を持たないと衰弱するという。キリスト教は旧約が共同体宗教、新約が個人宗教の部分を受け持っていると言われる。また、インドで仏教が衰退したのは個人宗教の要素が強かったためで、共同体宗教のヒンズー教に戻ったと言う。なるほどと思う。
 私もここ数年、日本の原始信仰、神道、神社などに関心が向いていて、神仏混淆、自然信仰に関心をもってきた。田中先生のお話や著作を読んで、日本人の信仰として、神仏習合、八百万イズムというものを考えるべきだと思うようになっている。
 また、先生は、法然親鸞を単純に賞賛するだけではいけないと言う。五木寛之山折哲雄梅原猛瀬戸内寂聴等が色々な本を書いたり、親鸞関係のことをたくさん書いているが、この人たちは仏教のことしか語っていないという。この人たち、私の好きな作家たちだが、言われてみれば、たしかに神道関係のことには触れていない。
 梅原猛の最近の著作、「海人(あま)と天皇」の中では、聖徳太子の17条憲法や、日本人の原始信仰にも言及している。梅原猛もここにきてやっと真の“神仏習合”に目覚めた?ということだろうか。

 私は18歳の時に親鸞歎異抄に出会い、以来、色々な方の歎異抄解説本を読んだり、親鸞関係の本を読んできた。理屈だけではなく、親鸞の言葉は腹の底にずしんと響くものがある。先生の言われるように単純に法然親鸞を賞賛するだけでなく、彼らの思想・宗教を深く見つめ直す必要があるだろうが、若き日より親鸞の言葉、思想に感動した“初心”は忘れないで、これからも折にふれ、読み続けていこうと思う。
 南無阿弥陀仏。Namo Amitabha!