新元号 「令和」

元号が令和に決まった❗
 一瞬あれっと思ったが、万葉集からと聞き、早速、巻五の該当箇所を読んだ。出典を知ってなかなか良い元号だと思った。令和で何年生きられるのか? どんな時代になるのだろうか。おかしな平成から新しい「令和」の時代になってほしいと思う。

 以下、万葉集より
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」

「大乗仏教 ブッダの教えはどこ向かうのか」(佐々木閑:NHK出版新書)

 大乗仏教については今までに色々と読んできたが、大乗仏教の発生の経緯、それぞれのお経についての関連など、まとめて勉強したことはなかった。この本は、NHKの「100分で名著」をベースに加筆したものなので、やさしく書かれている。大乗仏教の経緯、原始仏教との違いなどが今まで以上に理解できたと思う。この本の中で紹介されている、大乗起信論をあらためて読み直してみたいと思う。
 以下は、amazonでの紹介文です。
般若経法華経華厳経浄土教密教…。「自己鍛錬」を目的にした釈迦の仏教は、いつ、どこで、なぜ、どのようにして、「衆生救済」を目的とする大乗仏教へと変わったか?そして、その教えはどこへ向かおうとしているのか?原始仏教の研究者と一人の青年との「対話」から大乗仏教の本質へと迫りゆく、驚きの仏教概説書。

 

 

司馬遼太郎の「歴史を紀行する」を読む

 私は近現代史よりも古代史に興味があるので幕末から近代については知識が薄い。またまた、家人の勧めで司馬遼太郎の「歴史を紀行する」を読んだ。
 以下はamazonからの紹介
幕末―松陰を筆頭に過激に突っ走った長州。西郷、大久保と大人の智恵を発揮した薩摩。容保を頂点とした会津の滅びの美学。危機の時ほど、その人間の特質が明瞭に現れる時はない。 高知・会津若松・鹿児島・大阪・佐賀など12の土地を歴訪し、その風土と人物との関わり合いをつぶさに見なおす風土と人物との関りあい、その秘密、ひいては日本人の原形質を探るた司馬史観を駆使して語る歴史紀行。
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 私は千葉県人、温暖なのは結構なのだが、昔から特徴のない県民性だなと思ってきた。この本を読んで、歴史を彩ってきた人物の育ったそれぞれの地域の風土を知り、面白いなと思った。
 今までのビジネス人生の中で、関東、関西、大阪、北海道、アメリカ等、そこそこの人々の育った県民性、地域性などに接してきた。それぞれに特長があって面白いものだなと思ってきた。
 この本で、あらためて、歴史と人物を考え、日本の歴史を少し理解し直すことができた。

梅は咲いたが、桜はまだかいな?

桜の開花も間近になってきた。街中には河津桜や、陽光桜、白木蓮も咲いて季節に色がついてきた。
 3月末にはLAから次男家族が帰国する。今年は孫達との賑やかな花見を楽しみたいと思っている。
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赤ん坊の成長

長男の子供が生まれてから二か月が過ぎた。赤ちゃんと嫁さんの世話で週のうち4~6日は家人が世話に行く。私はアッシーをして時々夕食を作っている。3,300gで生まれて2ヶ月ちょっとで6kgになった! まだ言葉にはなってないが、いろんな声で発生したり、笑うようになってきた。
 自分の子供のときは、毎日帰宅も遅く、土日も出勤のことが多く、子供の成長ぶりをゆっくり観察することがなかった。
 孫を毎日のように見ていると、人間の生命の不思議さと素晴らしさを改めて気づかせてくれる。どのように育って行くのか楽しみだ❗

ドナルド・キーンさんの死を悼む!

ドナルド・キーンさんが亡くなった。つい最近、瀬戸内寂聴さんとの元気な対話本を読んだばかりだった。日本文学に造詣が深く、日本人が気が付かない日本文学の深さ、日本文化の素晴らしさを教えてくれていた。偉大で、貴重な人がまたいなくなって残念な限りだ! 寂聴さんとの対話の続編も聞きたかった❗
 合掌❗

「中世の文学」(唐木順三)

今迄に、方丈記徒然草花伝書道元芭蕉俳諧などを読んできたが、中世の歴史の流れの中でその位置づけ、関連等を考えては読んでこなかった。
 今回この本を読んで、「数寄」から「すさび」さらに「さび」に至る流れが理解できて面白かった。
 以下はamazonからコピペしたコメントです。
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「数奇」から「すさび」を経て「さび」に至って確立する中世文学の「精神のかたち」を極めてシャープな論理で抽出した唐木の代表作である。鴨長明の「数奇」になお残る王朝文学の残滓を払拭し、裸の現実を直視したのが兼行の「無常」即ち「すさび」であるが、世阿弥道元芭蕉をつなぐ太い稜線を形作るのは、「型」や「行」あるいは「自然」という自己を越えたものに自己を委ね尽くすことで真に自由な自己に遊ぶ境地であり、それが「さび」だ。「数奇」から「すさび」への道が「色即是空」だとすれば、そこから「さび」に至る道が「空即是色」であることは言うまでもない。東洋哲学の伝統に即しつつ、芸術におけるその極致として能、禅、俳諧に一貫する精神を明解に位置づけた傑作評論である。