「鎖国はなかった!」

 退職前から所属していた、「桜会」という異業種交流会に久しぶりに参加した。小野寺満憲さん(前・荏原製作所 取締役技監)という方が、「エドナイぜーション」 ― 平和で豊かな世界の未来は「江戸」にあったというテーマで話をしてくれた。
 江戸時代の、政治、文化の見直し、リアリスト家康の平和思想、生類憐れみの令、参勤交代制の見方など、江戸時代を考えなおさせるテーマが盛りだくさんだった。
 最近は、「ちい散歩」で江戸の伝統職人芸や、「美の壺」などの番組で、“江戸小紋”などいろいろな江戸時代の「技」「匠」を見せてくれて、私自身も江戸文化を改めて見直しているところだった。
 ところで、私たちの年代は学校の歴史教育で“鎖国は江戸時代の封建体制”のもとで実行されたと習った。また、徳富蘇峰和辻哲郎が、第二次世界大戦をはさんで、鎖国によって日本は近代的発展によって著しく損をした、という得失論を展開した。それ以後、この鎖国という言葉に悪者イメージがついたという。(以下、ウィキペディアからのコピペを含む)

 鎖国という言葉は、江戸時代の蘭学者である志筑忠雄が享和元年(1801年)の『鎖国論』においてはじめて使用した。
エンゲルベルト・ケンペルという人物が、江戸参府旅行を経て帰国後書いた著書『日本誌』(1712年刊)の中の、巻末の一章にあたる「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という題名を、志筑が「鎖国論」と変更した。この「鎖国」という言葉は、その際の新造語であり、実際に鎖国という言葉が普及するのは明治以降で、それ以後は以前の政策も鎖国の名で呼ばれることになった。そのため、近年では「鎖国」ではなく、他の東アジア諸国でも見られた「海禁」にあらためようとする動きがある。なお、当然ケンペルはいわゆる鎖国体制を肯定する立場である。
 要約すると、「日本のように他国よりも資源に富み、勤勉な国民により産業が発達している国、つまり自給自足で豊かな国が、何も求めるものの無い外国人からの奸悪・貪婪・詐欺・戦争などから守るために、門戸を閉ざすのは適切で、そうするべきである」というもので、志筑の造語(鎖国)もこの立場からの言葉であった。
 蛇足ながら、志筑忠雄はケンペルの原文「to keep it shut up」の部分を「鎖国する」と訳し、この訳書を「鎖国論」としたという。
 我々は“戦後の民主教育”によって、ここでも歴史の一面しか教わってこなかったわけだ。
 邪馬台国論争、古代史、記紀神話、伊勢神宮出雲大社大化の改新、戦国時代、江戸時代、近現代、それぞれの歴史は、それぞれの時代の為政者によって解釈が異なったり、歴史の改ざんなどが行われてきた。学者の説や先生の教え方も、考古学の新しい発見や国家(文科省)の影響を多く受ける。
 個人個人がもっと勉強して、しっかりとした歴史観を持たなければならないと痛感した。