「日本語は天才である」(柳瀬尚紀)

 昨年、日本語関係の本を3冊紹介した。辞書好きのHenryとしては、柳瀬さんの書いた、「辞書はジョイスフル」「広辞苑を読む」を読んでいた。今回は山本夏彦の「完本文語文」に続いて、2冊目の「日本語は天才である」を紹介しよう。
 この本、冒頭で芥川の「最大の奇蹟は言語である」という言葉を紹介し、柳瀬は「最大の奇蹟は日本語である」→「日本語は天才である」と言って、日本語の天才ぶりをいろいろな角度から紹介している。
 「日本語は、世界の言語の中で孤独だと言ってもいいのではないか。天才だからこそ孤独である言語、孤独であるからこそ天才である言語−しかし孤独であるけれども豊かな言語」と柳瀬は語る。
 柳瀬は翻訳家ですが、翻訳不可能といわれたジェイムス・ジョイスの「フィネガンス・ウェイク」(この本、なまじの英語力で読める本ではない)を見事に日本語に翻訳している。
 柳瀬はこの本の中で、縦横無尽に日本語について語っている。その中のいくつかを紹介します。
 
 まず、回文(上から読んでも、下から読んでも同じ文章になるもの)の紹介。「まさかさかさま」、『軽い機敏な仔猫何匹いるか』これは、土屋耕一回文集という本の題名がそのまま回文になっている。「三県で猪の遺伝子検査」「うかつにダムをひく国費を無駄に使う」いずれも回文だ。八ッ場ダム建設中止問題なども新聞、週刊誌が見出しにこの回文を使ったら面白かっただろうと思った。
 「飼いならした豚知らないか」は柳瀬作。英語では回文をPalindromeという。英語の回文も紹介している。
 Madam, I'm Adam.  このアダムがマダムに電話で愛を告白する?!
「はい、アダムだ。マダムだ、愛は」・・・これも回文です。
 
 次に漢字について、「字訓」、「漢語」、「和製漢語」の話から万葉仮名の話に及ぶ。万葉集が完成した八世紀末まで、数世紀にわたって、膨大な量の翻訳が行われた。「日本語は、無文字の自分をまるごと漢字に翻訳していった」と柳瀬は言う。万葉仮名からカタカナ、ひらがなの発明、こういった古代人、平安人の創造力のお蔭で我々日本人は“天才の日本語”を使えているわけだ。
 
 日本語はまた、漢字に習って文字を作った。これを国字という。
榊、辻、畑、畠、樫や、凪、颪、躾、毟る、凧、椚などなかなか味のある国字が多い。今の中国の簡体字のように、あまりに簡素化してしまうと、表意文字としての漢字の良さが消えてしまうのではないかと思う。寿司屋の湯飲みに魚偏のつく漢字がたくさん書いてあるものがある。実家が魚屋だったHenryとしてはだいたいの漢字は読める。あの漢字も多くは国字なのだろう。鱚(キス=すれば喜ぶ=Henry解釈)、鰰(はたはた:何で神の魚なんだろう→鰰のとれる季節に雷が鳴ることから)、等々、なかなか面白い。
 
 その他、私もよく使う「?!」=疑問感嘆符を、永井荷風や、芥川がよく使ったとか、「!!!」などのように、感嘆符を面白く使っている例も紹介している。
 こういう「?!」や「!!!」は文章を書くには邪道かと思っていたが、宮沢賢治の「断じて眼を! 眼を!! 眼を!!! ひらき」(『疾中』より)など、有名な作家が結構使っていることを教えてくれた。
 
 この本の第七章で、「ナナと読むか、シチと読むか」ということを書いてある。第七章はダイシチショウと読むべきと柳瀬は言う。「七」の次に和語、和訓がくる場合はナナとなり、漢語、字音が来る場合はシチになるという。七月、七回忌、七十五日、七並べ、七人の侍七福神憲法十七条、男女七歳にして・・・、七段、これらは皆「シチ」と読むのが正しい。私も、ジュウナナジョウと読んだり、ナナサイ、ナナダンなどと読んでいたように思う。
 七十年も本来は「シチジュウネン」と読むべきところ、70年安保が騒がれた頃から、「ナナジュウ年」と語られるようになった。
「七」を「ナナ」と読むことが多くなったのは、“安保闘争”が犯人だったと柳瀬は言う。現在は「シチ」と「ナナ」がさらに乱れてきているのだろう。
 
 最後の章は、いろは歌「色は匂へど、散りぬるを、・・・」同様、四十八文字を一回ずつ使った歌や文章を紹介している。かの本居宣長もいろは歌を作ったそうだ。最後に柳瀬尚紀さんの2001年巳年の正月に作ったといういろは歌を、この本から引用します。

 巳の年や 梅待つ雪在り 杯を干す
 肴 お節 酔(ゑ)うだけ酔(よ)へ
 濡れ縁に黒猫居て 
 嗤(わら)ひ初(そ)むるも

とまあ、こんな具合に、日本語の天才ぶりをいろいろな角度から紹介してくれる肩のこらない楽しい本でした。