「人生読本 落語版」(矢野誠一 岩波新書)

 「こんなこと学校じゃ教えない」ことを、いろいろな落語家のエピソードを交えながら語っており、楽しい“人生読本”になっている。日経の書評で紹介されていた。著者の矢野誠一さんが落語的人生を送ってきたのだろうという紹介があって、なんとなく興味が湧いて読んでみた。
 確かに、落語で語られる世界、こんなこと学校じゃ教えてくれなかった。私たちの少年時代は、TVもインターネットもなかった。TVを家で見るようになったのは高校時代からだった。だから、少年時代の外部情報は、学校とラジオからがすべてだった。矢野さんの語る落語の世界、いろいろな落語家の名前が出てくる。私は、落語に夢中になったことはないが、落語家の名前はそこそこ覚えている。しかし、九大目林家正蔵こぶ平だったことは知っているが、八代目林家正蔵だ、八代目桂文楽圓生圓朝志ん生と言われても顔と名前が一致しない。それでも聞いたことのある落語がいくつかあった。
 『寿限無』という落語、“寿限無寿限無 五劫の摺り切れ・・・”と始まる。“五劫”とあるから、仏教から来ていることは分かっていたのだが、仏典の『陀羅尼品』が出展だということはBudhist Henry知らなかった。この本の中で、“五劫の摺り切れ”は、本来、“五劫の摺り切れず”で、落語家は“五劫の摺り切れ”と言って、客には「摺り切れず」に聞こえさせなくてはいけない、という話を紹介している。三千年に一度下界に下る天女が巌をひと撫でする、その巖がすり切れるのが一劫で、五劫といえばその5倍。「摺り切れ」よりも「摺り切れず」のほうが、より途方もない時間ということになると、説明があった。落語の世界も奥が深いもんだと思った。
 今度、『寿限無』を聞く機会があったら、注意して聞いてみよう。
 私は、ほとんど小説は読まない。Unchiku Henryは、人間は柔らかいつもりなのだが、どうも本は硬いものが好きだ。とはいえ、寄る年波、硬い本は気合いを入れて読まないと眠くなるものが多くなった。「人生読本 落語版」は肩がこらず、頭安めになりました。
 この本を読んで、桂春団治圓生などが聞きたくなって、図書館で落語CDを借りて聞いた。たまには落語をじっくり聞くのもいいものだと思った。