二人のテノール歌手による教会コンサート

 同じマンションの友人Eさんからの招待で、地元の大宮教会でのコンサートに行ってきた。自称ブッディストのHenryとしては、教会に行くのはなんとなく“二夫?にまみえて”しまうようで、罪の意識を感じる。しかし、ブッディスト&ヤオヨロジストの考えからすれば、キリスト教八百万の神の一つと素直に参加した。
 ほとんどが教会の信者の方々だろうか、清々しい顔をした老若男女が教会一杯に集まっていた。
 60歳のBarry Craftさん、26歳のBen Owensさん二人のアメリカ人のテノール、ピアノとギターを弾きながらの二人の演奏は迫力と繊細さを併せ持って素晴らしかった。
 教会での音楽は、結婚式と葬式で讃美歌を聴いたくらいだ。LA駐在の折には教会コンサートに行ったこともある。
 キリスト教のことはよく分からないが、讃美歌とか教会音楽はどのくらいの歴史があるのだろうか。バッハ、ヘンデルよりも更にさかのぼるのだろうか。
 宗教と音楽は切っても切り離せない。仏教も声明の歴史はかなりながい。声明にはかなり音楽的要素があるが、現代の葬式仏教におけるお経はほとんど音楽とは言い難い。しかし、むかし鹿児島県に葬儀に出かけた折、浄土真宗のお経の合間に、和讃にメロディーをつけたもの(楽譜が配られて)が歌われたのには驚いた。メロディーは讃美歌のようであった。九州にキリスト教が伝わった頃の影響が残っているのだろうか。
 日本の仏教も、宗派を越えて、いくつかのお経にメロディーをつけて歌うとか、なければ新しいものを作って、法事だけでなく、もっと日常的にお寺で歌われたらばいいのにと思う。「千の風になって」のようなものがいいと思うが、「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって・・・」と歌われたのでは、お寺が要らなくなってしまう。
 仏教がキリスト教にかなわないところは、教会音楽などのように、人間の感性に訴えるところを軽視してきたことではないかとも思う。若い住職や、坊さんたちは仏教の改革を目指して、お寺でのコンサートや講演など色々な取り組みをしている。神道東儀秀樹が頑張っているせいで、若い人に雅楽が見直されている。
 日本人が、自分の原点に立ち戻って、アイデンティティー、信仰を、日常生活、生活文化から見直すべきだと思う。そして、そういうことにもっと関わっていくべきだと、私は、思う。
 
 Two Tenorsの話に戻ろう。観客のアンコールにこたえて、Barryさんが突然「荒城の月」を歌い出した。厳粛で朗々たる荒城の月に感動して思わず泣けてしまった。
 これも「気韻静動」だろうか。Barryさんの声から「気」が発せられていたのだと思う。ともかくも、感動を頂いた Chappel Concert でした。Amen! 合掌!