「日本語が亡びるとき」(水村美苗)
A塾で先生がこの本を取り上げて解説された。図書館に予約して4ヶ月ほどたってからやっと回ってきた。この本に対する関心の強いことが分かる。
「英語が<普遍語>として圧倒的な力を持ってきている状況下で、日本語が<国語>として生き残れるか」、12歳の時に父親の仕事の都合でアメリカにわたり、しかも、中学生の間は毎日日本文学全集を読むことだけが楽しみであった、という著者、小説家でもある。
著者は言語を<普遍語><国語><現地語>という三階層でとらえている。「普遍語」とは、古代からのラテン語、ギリシャ語、かってのフランス語、ドイツ語、英語、現在は圧倒的に英語ということになる。まさに、universal languageというわけだ。
「現地語」とはlocal language、近代以前の日本語は「現地語」でしかなく、近代以降西洋語を翻訳するに耐えうる言葉として日本語が発達し、「国語」となった。「国語」は“国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉”でnational languageだと定義している。
日本語(国語)が中国、朝鮮半島から伝わった漢字文化を取り入れ、大和言葉から万葉仮名、カタカナ、ひらがなを作って、漢字仮名交じり文を作ってきた。書き言葉の文語文から、言文一致運動を経て、今日の口語文が「国語」となった。その歴史と経緯などを、自身の体験を織り交ぜながら語っている。
昨今のインターネットの急速な普及にも影響されて、普遍語としての英語がますます強くなっている。著者は科学、数学だけでなく、思想、哲学、はては小説までも英語で書かれるようになるのではないかと危惧する。シンガポール、インド、フィリピンなどは英語が公用語のひとつになっており、“国語”は現地語化している。
日本も日本語をもっと大切にしないと、日本語が「国語」から「現地語」になってしまうと心配する。そうならないためには、書き言葉を大事にして、読まれるべき言葉を読む国民を育てる必要があるという。また、古典とのつながりを最小限度は保つべきだという。ここでいう古典とは、枕草子、源氏物語、平家物語、徒然草などの古典(古文)から、近代の夏目漱石、二葉亭四迷、福沢諭吉、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎などを指すようだ。
最近の中学、高校の国語教科書がどういうものを取り上げているか分からないが、古文や近代文学の取り上げがかなり少なくなったと聞く。国語嫌いだった私は漱石、諭吉くらいしか読んでこなかった。古文や漢文など、習っているときはつまらないと思っていたが、大人になってから、もっと古典、近代文学を学生時代に読んでおけば良かったと後悔している。嫌々ながら、勉強した徒然草や、枕草子など今でも頭に残っている。
ところで、中学校の英語の時間が今は週4時間だそうだ、それに対し国語は3時間。フランス、ドイツ、アメリカはそれぞれ「国語」を週5時間教えているそうだ。“普遍語”の英語を強化したいのは分かるが、漢字の読めない政治家をこれ以上作らないためにも、“国語”の時間を増やし、古典を読む時間を増やすべきだと思う。古事記や万葉集、徒然草、枕草子をはじめ、百人一首なども、もっと力を入れて教えるべきだと思う。
この本を読んで、山本夏彦の「完本文語文」を読み直した。文語文を捨てたことによる現代口語文は何を失ったか。新仮名遣いの問題点など、水村美苗さんも同じことを取り上げているが、山本夏彦のこの本の方が、現代日本語の問題点を鋭く指摘していると思う。水村さんの本と併せ読むといいと思う。
amazonのブックレビューでは賛否両論でいろいろな書評が載っている。このレビューを読むだけでも、現在の日本語=“国語”の置かれた状況を、日本人がどう考えているかが分かり面白い。
多少情緒的に流れるところや、論理が明快でない部分もあったが、今までにない角度から、日本語(国語)のあるべき方向を考える視点を得ることができ、普遍語という捉え方が勉強になった。