さいたま親鸞講座

 朝日新聞に載っていたこの講座のことを、妙齢友人が 切り抜きをくれて教えてくれた。大宮駅の近くで行われるというので、家内と一緒に参加した。「歎異抄」をテキストに、現代に生きる私たち人間の課題を仏教の言葉に学んでいくという。
 歎異抄は私が18歳の時に、初めて読んだ仏教書である。金子大栄校注の岩波文庫版、難しかったが金子大栄の校注が味わい深かった。その後、松原泰道紀野一義梅原猛早島鏡正、阿満利麿、五木寛之など、多くの歎異抄について書かれたものを読んできた。親鸞関係の本や浄土三部経教行信証などもつまみ読みしてきた。

 頭では理解してきたつもりだが、仏教、信仰は頭で理解するものではなく、心(ハート)と身(からだ)で感じ実践するものだとは承知している。しかし、まだまだ煩悩熾盛のHenry、この歳になっても、素直に手を合わせ ”南無阿弥陀仏”と念仏を唱えることはなかなかできない。

 今日の講義は“歎異抄”の第9条、講師は岐阜県高山市、不遠寺の四衢(よつじ)亮(あきら)という住職、「他力の悲願は煩悩具足の凡夫のわれらのためなりけりとしられて・・・」など、1条の中の文言を味わいながら解説してくれる。今までさっと読み飛ばしていて、気が付かなかったところを新たに解釈をする事ができ、有意義だった。

 会場はある会社の会議室だったが、新聞を見て来たという65歳以上と思しきシニアの男女が会場一杯の100名ほどが参加していた。

 久しぶりの歎異抄、今日の講演に先だち、歎異抄関連を何冊か復習した。本を読むだけでなく、心底から、南無阿弥陀仏が自然(じねん)に出てくるようになりたいと思っている。