釈撤宗さんの「歎異抄 救いの言葉」を読み終え、改めて、紀野一義さんの「私の歎異抄」が読みたくなり、再読した。前に読んだのが2009年だから11年前になる。歎異抄に関してはいろいろな方のものを読んできたが、紀野さんのこの本は印象に残っている。改めて、歎異抄の中の親鸞の言葉を噛みしめ直す。
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
今生に、いかにいとほし不便と おもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、 いまだ候はず。
親鸞は弟子一人ももたず 候ふ。
「薬あればとて、毒をこのむべからず」
「さるべき業縁のもよほさば、 いかなるふるまひもすべし」
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞 一人がためなりけり。
ズバッとした鋭い言いきりがハートにずしんと入ってくる。
紀野さんは、あるドイツ人が言った、「ヘッセの文学を真に理解するためにはゲミュートがなくてはいかぬ」と引用した。ゲミュートとはgemut
ところで、読み初めは季語にもなっているが、読み納めは一般に使われてはいるようだが、広辞苑など身近な辞書には載っていない?
青春のころに出会った歎異抄、コロナ禍の2020年、静かに初心に還り、読み納めとした。