- 作者: 玄侑宗久
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/10/09
- メディア: 単行本
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解離性同一性障害という、次々に現れる不可思議な現象とその謎を追いかけていくうちに、どういう結末になるのかと、一気に読んでしまった。
精神医学についてはあくまでも慎重な態度で話は進んでいく。結末には明るい希望があるが、話は単純には終わらない。心の問題を抱えているのは主人公だけではないというところにも奥深さを感じた。
DIDの主人公や、その夫や作中人物が阿修羅を見たときの印象を語る場面が何回かある。作中人物に語らせている阿修羅についての解釈が印象深い。玄侑さんはしばしば「お坊さんがこんなこと言っちゃっていいのだろうか?」と心配になるような表現をする。しかし、それは「表現の自由」などという無粋なものではなく、充分に配慮された「自由な表現」である。また、物語の随所に人の心に寄り添う言葉がちりばめられているが、これは僧侶であるゆえの視点であろうか。
この小説は、玄侑宗久が阿修羅像からイメージした小説ではないかと思う。玄侑宗久がどの程度DID(多重人格)を勉強して書いたのか気になったが、巻末の参考文献を見ると、20冊以上読んで、現役の神経精神医学の教授からも作品へのアドバイスを受けているという。単に想像力だけで書いた“フィクション”ではないことが分かった。
唯識の阿羅耶識にも触れているところが、私には興味深かった。
太古の生命が生まれたときから遺伝子に書き込まれたもの、産み落とされたときから、阿羅耶識の中に蓄えられたいろいろな“種子(しゅうじ)”、その種子がいつどんな時に、どのようなかたちで、突然“発芽”するのか、まだまだ分からないことが多い。
「歎異抄」の中にも、「なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」という文章がある。
人間の心の奥深くをのぞくと、解離性同一性障害とまではいかずとも、平常人のわれわれの中にも、程度の差こそあれ多重人格性が潜んでいると思う。秘められた、隠された人格を押さえてIdentityを押さえてきたということなのだろうか。
自己とはなにか、人格とは何か、阿羅耶識とは・・・、などなど、あらためて考えさせられるところの多い小説でした。
この小説、誰がDIDを演じ分けられるか難しいと思うが、映画化すれば映像的に面白いのではないかと思う。
私は小説はほとんど読まないが、この小説は久しぶりに一気に読んだ。小説好きの方に言わせれば、もっと面白いものが多くあるのでしょうが、是非ご一読をお勧めします。